2015
03.02

「『葬式仏教』を考える」③/④

Category: 未分類
3

 松尾氏の著書「葬式仏教の誕生」には、『八幡愚童訓(乙)』に残されているものとして次のような話が紹介されていました。
  「最近、京都より仲蓮房(ちゅうれんぼう)という僧が、石清水八幡宮に参詣した。その際、鳥羽の小家の前で、若い女が激しく泣きながら立っていた。その様子には、悲しみの様があまりに見えたので、仲蓮房は、そばに立ち寄って「何事を嘆いておられるのですか」と尋ねた。女性は「私の母が、今朝亡くなったが、この身は女人で、独り身なので葬送の地に送る力もない。少しの財産もないので他人に依頼するすべもない(略)」と答えた。誠に心中かわいそうに思えて、「私にまかせなさい、葬送の地に運んで葬儀をしてあげましょう」と言って、家の中に入って母親の死体を背に負うて、葬儀地に運び葬儀を行った。この女人の喜ぶことは、、尋常ではなかった(以下略)」。
 この後、仲蓮房は、はからずも死穢に触れてしまったことを神の心に背くものとして恐れます。しかし、恐れつつもとにかく参詣します。ところが、参詣の後、夢の中に神社の宝殿から黒衣の八幡神(はちまんしん)が現れ、人を哀れむことは清浄心(しょうじょうしん)の現れであり、死穢はないと示すとともに、仲蓮房の行為を賞賛したというのです。
 「死」ということが、当時の人々の心にいかに重要な意味を持っていたかということがよく分かります。身内の「死」に際し、供養することなく、その遺体を放置することに忍び難さや後ろめたさを感じるのは、当然の心の動きです。それは死者に対する深い愛情の表れに他なりません。そして、時代の隔たりや社会構造の違いなどとは全く関係ありません。  
 「生」があれば「病」があり「老」があり、そしていずれは「死」があることは当然のことではあります。しかし、そうではあってもこの四つを並列に扱うこができないのが私たちです。「死」の持つ意味は、やはり決定的に大きいのだと思うのです。 
 それが「弔(とむら)う」という行為なのだと思います。身内の「死」に接したとき、自分たちには穢れた「死者」を供養する術がない…、かといってそのまま放置しておくことはとても耐え難く、忍び難い…、そんな民衆の叫びに応えたのが遁世僧だったということです。その意味では、「葬式仏教」は、遁世僧による民衆の救済、つまり「衆生済度(しゅじょうさいど)」という形をとって始まったというわけです。(以下、④/④につづく)

34-1 
※クリックすると拡大して見られます。


スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2015
03.06

「『葬式仏教』を考える」④/④

Category: 未分類
4   

  大乗仏教(日本に伝わった仏教)の根本理念とされるのが「衆生済度(しゅじょうさいど)という理念です。仏法の力により人々を迷いから解放し、その苦悩を取り除くことを意味します。
 多くの宗派で、お経の一番最後に読み上げられる短い経文に、仏教徒が立てる四つの誓いである『四弘誓願文(しぐせいがんもん』がありますが、その最初に出てくるのが「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」です。生きとし生けるもののすべて救うという誓いを立てることです。因みに、二番目が煩悩を断つこと、三番目が仏法を学ぶこと、四番目が仏道を極めることですから、衆生の救済がいかに大きな意味を持っているか分かるかと思います。
 「葬式仏教」などと揶揄や批判にさらされることもある現代の仏教ではありますが、このようにその起源を知るとき、新たな思いが湧いてくるのは私だけでしょうか。「葬式仏教」を「衆生済度」という側面から捉えるとき、そこには仏教の存在理由に関わる深い意義が認められます。私たちは「葬式仏教」ということを誤解していたのかも知れません。
 人の「死」を厳粛なものとして受け止め、「死者」を手厚く供養し、葬るということは、人としての当然の行為です。人が人であるための絶対条件と言ってもいいでしょう。それは、残された者に、命の尊厳を教えると同時に、それを授けたものへの畏敬の念を呼び覚ます契機にもなるはずです。
  このような思いから、以下、身の程もわきまえず、私見を述べさせていただきます。
 仏教関係者は、「葬式仏教」という揶揄や批判に対し、これらのことを踏まえた上で、もっと積極的に反論してもよいのではないでしょうか。もちろん、“釈迦(仏)の教えを伝える”といった本来の仏教の在り方を追求していくことは重要です。今日まで「衆生済度」を第一義として歩んできた仏教が、今後も影響力を持ち、それを維持、拡大させていくためには、その立ち位置を決して見失ってはならないだろうと思います。
 しかし、考えてみれば、“釈迦(仏)の教えを伝える”こと自体が「衆生済度」を目的に行われるものです。その意味では、昨今の「葬式仏教」などという悪し様な言い方に対し、その真義を伝え、誤解を解くように努めることは、本来の仏教の在り方にも合致すると思うのです。
  浅薄な素人意見であることは十分承知しています。読者からのご意見をお待ちします。(〆)

34-2 IMG_0645トリ 
※クリックすると拡大して見られます。





Comment:5  Trackback:0
2015
03.10

「ギャラリー33」

Category: 未分類
 ◎これまで掲載した水をテーマにした写真を「ギャラリー33」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 

 しかし どれも本当の顔ではない 

 心も同じこと 
 

今回の撮影地も、すべて豊田市の阿知波池です。3~6は、池の全面に広がった緑の藻がマーブル状態になったものです。池に棲む生き物、あるいは風が魅力的な模様を作り出していました。

33-1

33-2 

33-3 

33-4 


33-6 


33-7 


33-8 
次回は、『生かされて伝える』を掲載(2回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

Comment:0  Trackback:0
2015
03.22

「天上天下唯我独尊」①/③

Category: 未分類

134111798481113222982.gif

 見知らぬ人から自己紹介を要請されたとします。曰く「あなたはいったい、どなたですか?」と。読者ならどのように答えられるでしょうか。
 「私は、○山○男と言います。国籍は日本で、昭和○年4月3日生まれの○歳です。生まれたのは愛知県の旧○郡ですが、今は○市に住んでいます。○年間、○として働き、今は無職です。身長は170㎝、体重は55㎏で、血液型はA型です。子どもは2人いますが、今は妻と2人で暮らしています。趣味は○で、ブログに熱を入れています…。」
 よくあるパターンとしては、概ねこんなところではないでしょうか。
 ところが、これでは「あなた」のことを紹介したことにはなりません。「あなた」を特定するのに不十分だということです。こんなことを言うと、それならとばかり、戸籍抄本や履歴書、さらには健康診断書まで持ち込んで自己紹介を試みる読者もあるかも知れません。なかには、健康保険証番号や年金番号を示す場合もあるかも知れません。
 しかし、これをいくらやったとしても「あなた」の自己紹介にはならないのです。どういうことなのでしょうか?
 今地球上には70億人余の人間が住んでいますが、それらの一人一人を他者と区別するためにはさまざまな情報(デーが)が必要です。人口が増え、社会の構造がますます複雑化している今日、その流れは一層、顕著になることでしょう。
 ところが、これらの情報は、すべて概念の寄せ集めです。それぞれの指標は、「あなた」にかかわる無限の情報の中から、都合に合わせて特定の断面を切り取って表現したものばかりです。確かに、健康保険証番号や年金番号など、個人に割り当てられた番号を示すことで「あなた」は特定できるでしょう。
 しかし、それはあくまでも便宜上の「あなた」であり、決して「あなた」そのものではありません。このような指標をいくら持ち込んできても、「あなた」そのものを正しく自己紹介することはできないのです。
 では、本当の「あなた」というのは、どこにいるのでしょうか?  (以下、②/③につづく)

34-5 
※クリックすると拡大して見られます。



Comment:0  Trackback:0
2015
03.26

「天上天下唯我独尊」②/③

Category: 未分類

a_kutukimura-img600x450-13947941696qednn5924.jpg [誕生釈迦像]

 「本当のあなた」(言い換えるなら「本当の自分」)は、これらの情報をすべて取り払ったときに現れてくる…。これが仏教(とりわけ禅)の解釈です。
 西村恵信氏(禅文化研究所所長 臨済宗の禅僧)は、その著書『坐る』(禅文化研究所)で次のように述べています。
 「誰でも、夜ぐっすりと眠っているときには、自分に気づいていない。しかし、朝起きてみると、自分が寝ていた証拠にベッドがくぼんでいる。それは、一晩中ゴロンと横たわっていた自分というこの肉の塊が存在した証拠だが、実はこれこそが「本当の自分」ではないか。この肉の塊こそ、母親のお胎から生まれてきたままの自分であり、やがては棺桶に納められるものなのだ。世の中にたった一つしかない、大切な、大切な自分。「本当の自分」というのは、実はそういうものである。」
 このように、仏教によれば、「本当のあなた(自分)」は、私たちの意識や知識、概念などとは全く別なところに存在している、いわば“Something great”の働きにつながる自分ということです。したがって、それは、先に示した自己紹介の例のように、説明しようのないものであり、ただ一つの存在であるという意味で、この上なく大切なものであるというわけです。
 ところで、4月8日は、釈迦の誕生日とされています。そこで思い出すのが、釈迦誕生にまつわる有名な逸話です。釈迦は、その誕生のとき、すぐに7歩歩き、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそんと語ったと伝えられます。因みに、その誕生を祝う仏教行事である灌仏会(かんぶつえ)に見られる像は、そのときの釈迦の姿を表したものと言われます。
 「天上天下唯我独尊」…。この言葉は、しばしば誤解して使われることがあるので注意しなければなりません。「この世で一番尊いのは自分である」とも解釈できることから、「自己中心」とか「傍若無人」と同意で使われることがあるからです。
 落語のまくら噺ではありますが、次のような笑い話も聞いたことがあります。曰く、「それを見ていた周囲の連中が、『生まれたばかりのくせに、生意気なヤツだ』とばかりに袋叩きにした。そのため、お釈迦さんの頭にはたくさんのコブができてしまった…」と(誤解のないように申し添えますが、お釈迦さんの頭にあるのボツボツは「螺髪(らほつ)」といわれるもので、釈迦の縮れ毛を表したもののようです)。
 これは、漢字を直訳したことにより生じた曲解がもとになっているものです。正しくは、次のように解釈すべきものです。  (以下、②/③につづく)

34-6 
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2015
03.30

「天上天下唯我独尊」③/③

Category: 未分類

095903myvmmlbzw1bf1l0m.jpg 

 「唯我独尊」の「我」に、釈迦本人の意味はありません。個々の人間を代表したものが「我」です。したがって、その意味は、一人一人が、それぞれにこの世の中で最も尊い存在であるということを述べたものです。つまり、一人一人が誰にも代わることのできない、かけがいのない存在として生まれてきているのだから、そのままで最高に尊いものであるということです。したがって、努々(ゆめゆめ)、「自分が一番えらい」というような、うぬぼれの意味で使ってはならないということです。
 嬰児(みどりご)の釈迦が語った言葉とされていることに意味があるのだと思います。当然のことながら、生まれたばかりの赤ん坊に、地位や名誉、功績、財産、学問など何もありません。また、それらに何の意味もありません。人間は、誰も、それらの指標を超えて生まれてきます。そのことが最も尊いということだと思います。その自分こそが、「本当のあなた」(言い換えるなら「本当の自分」ではないでしょうか。
 現実の世界では、何事にもとかく優劣をつけ、他人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に陥ってしまいがちなのが私たちです。しかし、この世にただ一つ、かけがえのない「本当のあなた(自分)」という存在があるということに目覚めるなら、他人と比較して劣っているなどとして傷つく必要などないということです。また、同時に、他人より優れているなどといって、驕り高ぶることもなくなるはずです。
 『仏教聖典』(仏教伝道教会編)の中に次のような一節がありました。
 「煩悩の塵に包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に入れると四角くなる、しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。
 ところが、すべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。善し悪しと見、好むと好まないと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。」
(首楞厳経)
   
img_1.jpg    wave-64170_640.jpg      
 「本来の水」と「器に入れられた水」…。考えさせられるの喩えだと思います。私たちが自己紹介と称して、得意げに自らの情報を開示しているとき、それは、まさに「水の形のみ」にとらわれている姿であるということでしょう。そして、その情報は、さしずめ「善し悪しと見、好き嫌いと考え、その考えに使われ、その見方に縛られたもの」ばかりと言えるのだと思います。「本来の水」は、別のところにあるということです。
 自己紹介できない「あなた(自分)」こそが、大切な「本当のあなた(自分)」であり、誰もが、生まれながらに持っている清浄な「あなた(自分)である…。不謹慎かとは思いますが、この一点においては、釈迦も私たちも変わらないと思うのです。そして、こんな思いに立ち至るとき、とこか心が軽くなり、自由になるように感じるのです。
 蛇足ですが、今後、自己紹介を求められたら、「今日は、よい天気ですね」とでも言っておいて、その後は、何も語らないようにしようと思うのですが、読者は、真似をされませんように…。 (〆)

34-7 
※クリックすると拡大して見られます。




      




Comment:0  Trackback:0
back-to-top