2014
12.04

「ハイ」で悟る②/③

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200px-Mahakashyapa.jpg 迦葉尊者(かしょうそんじゃ)]
 
 しかし、このような浅薄な見方をしていたのでは、臨済の真意はつかめません。
そもそも、語録の王とも評される「臨済録」に、臨済の人格を貶めるような逸話が盛り込まれているわけはありません。
 仏教(大乗仏教)では、「上求菩提(じょうぐぼだい」、「下化衆生(げけしゅじょうということが大テーマです。「上求菩提」は、悟りを求めて修行すること、「下化衆生」は、大衆を救済することを意味します。
 そこでこの話ですが、禅的な見方によれば、臨済は立派に老婆を救済しているのです。無文老師は、「これは婆さんの負けだ」と評していますが、臨済は、老婆を呼び止めることで、彼女に「悟り」のきっかけを与えたということです。
 これでは何が何だか分からないという声が聞こえてきそうです。そこで、いつも例に出す禅問答集「無門関」を見てみたいと思います。第22則に「迦葉刹竿(かしょうせっかん)という話があります。
 この話には、迦葉(かしょう)と阿難(あなん)という二人の人物が登場します。二人とも釈迦の十大弟子の一人に数えられますが、迦葉の方が先輩で、この話の中では、阿難はまだ「悟り」が開けていない弟子として描かれています。釈迦が亡くなってしばらくしてからの話として伝えられるものです。
 あるとき、阿難が先輩であり、第二の師匠である迦葉尊者に尋ねます。
 「世尊(釈迦)は、あなた(迦葉)に大法(宇宙の真理)を伝授した証拠として金襴の袈裟を伝えられたそうですが、その他にいったい何を伝えられたのですか」
すると迦葉はそれには答えず、静かに
「阿難」
と呼びます。すると阿難が
「ハイ」
と答えます。
「それなんだよ。それ。それ以外に一体何があるかい。これで説法は終わりだ。門前に立っている刹竿(せっかん)を倒しておきなさい。」

このとき、阿難は豁然(かつぜん)と「悟り」を開いたというのです。 
(以下③/③につづく)  

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2014
12.08

「ハイ」で悟る③/③

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tubaki.jpg 
 ちなみに、刹竿というのは、寺で説法があることを知らせるために立てる旗竿のことです。したがって、旗竿を倒すということは、その日の説法の終了を意味します。釈迦のそばに二十数年も仕えていたにも関わらず、阿難は、それまで「悟り」が開けませんでした。ところが、迦葉に名前を呼ばれ、その日の説法の終わりを告げられたとたん、にわかに「悟り」を開くことができたというのです。この問答では、阿難は、何をどのように悟ったのかが問われているようです。
 この話はこの話で難解です。いったいどう受け止めたらよいのでしょうか。こちらの方は、禅問答ですので、くどくどしい解説や私見は興ざめになるかと思いますので、答えは読者にお任せするしかありません。
 ただ、先の臨済と老婆とのやりとりと重ね合わせてみると、見えてくるものがあるように思われます。どちらも「無意識」がテーマになっています。そこに注目したいところです。
 禅によれば、「誰にも分からないもの(不可思議)、説明できないもの(不可説)、答えようのないもの(不可商量)」を自己の中に心底から感得できたときが「悟り」とされます。無文老師の言葉を借りるなら、「自我の自覚以前、自他の対立以前、知識以前、経験以前の『無』としてのお互いの本心」を感得することです。これが、禅の修行の最終目標とされます。
 臨済に負かされた老婆も、迦葉に名前を呼ばれた阿難も、自らの内に潜在する「『無』としてのお互いの本心」に気づいたのではないでしょうか。その意味では、臨済も迦葉も二人(老婆、阿難)を立派に救済したということです。

 こんな簡単なことで「悟る」ことができるなら、自分にもそれが叶うかも知れない…。人から名前を呼ばれたとき、せいぜい心を込めて振り向いたり、返事をしてみよう…。こう思うのは、私だけでしょうか。
 ただ、そんな甘い了見だから、いつまでたっても凡夫のままなのでしょう。  (〆)

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次回は、『仏は働くか?』を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。


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2014
12.12

「仏は働くか?」①/⑤

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01 [ 阿弥陀三尊像(三千院)]

 宗教の問題を扱ったラジオ放送番組で、面白い話を聴きました。浄土真宗の僧侶をしている出演者から実話として紹介された話でした。ある信者の「南無阿弥陀仏」とお題目を唱えても、なかなか救われた実感が得られないという訴えに対する具体的なアドバイスとして紹介されました。
 主演者は、その信者に、次のような喩え話で応じたとのことでした。概ね次のようものでした。
  「消防車は誰がつくったものか?それは、自動車会社でもなく、そこで働く従業員つくったものでもない。“火事”がつくったものだ。薬はだれがつくったものか?それは、医者がつくったものでもなく、製薬会社がつくったものでもない。“病気”がつくったものだ。
 阿弥陀仏というのは、人間が抱く苦悩がつくったものだ。人間に苦悩があるから阿弥陀仏がいらっしゃるのだ。あなたの苦悩も病気の一つだ。その病気を治すために、阿弥陀仏がいらっしゃる。だから、「南無阿弥陀仏」と唱えると、阿弥陀仏は、必ずあなたのそばに現れて、苦悩を取り除いてくださる。」
 因みに、この言葉を聞いた信者は、その後、穏やかな生活を送ることができたとのことでした。
 たいへん面白い喩えだと思いました。これは次のようにも拡大解釈できます。私たちに「怒りや貪りや愚痴」の炎が燃え上がったとき、名前を呼ばれた仏は、消防車のごとく駆けつけて、鎮火するために放水してくださる…。何とも心強い話です。
 浄土門(浄土宗、浄土真宗など)の思想にあっては、阿弥陀仏(以下、仏とします)は極楽浄土に住むとされています。苦悩に満ちたこの世ではあっても、仏の住む極楽世界に往生すれば苦悩はないのだから、現実を逃避せず、苦しみに耐えて生き抜いていくというのがその根本教義と理解しています。それだけに、たいへん興味深い話だと受け止めました。
 ところで、私たちはこの場合の仏を“近親の死者”に置き換えることもあるのではないでしょうか。「怒りや貪りや愚痴」が生じたとき、亡くなった父親なら、あるいは母親ならどう言うだろう?どのようなアドバイスをくれるだろう?こんな思いに導かれて、冷静さを取り戻すことがことがあるように思います。このときは、亡くなった父親や母親が、仏になっているのだろうと思います。
 ただし、そのためには、自分の中にこれらの煩悩が生じているという自覚が必要でしょう。その冷静さに立ち戻れたときにこそ、救いの手は差し伸べられるということだと思います。(以下②/⑤につづく)
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2014
12.16

「仏は働くか?」②/⑤

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02 

 阿弥陀仏のようあ固有の仏であれ、身近な死者であれ、それを意識するときに共通しているのは、私たちが、“自分”でもない“相手”でもない、いわば“第三者”の存在に想いを寄せているということです。“第三者”を意識することで、私たちは、自己愛や自己都合から生じる偏った心の動きに影響されることなく、物事を冷静に受け止められるのではないでしょうか。それが「怒りや貪りや愚痴」を制御する力となって働くということだと思います。
 
 ところで、禅では、仏(以下、広い意味での仏)の働きをどのように考えるのでしょうか?以下、私見を述べたいと思います。
 仏という言葉をあまり使いたがらない禅ではありますが、それに言及したものとして、次のようなものがあります。「趙州録(じょうしゅうろく)」という書物の中にある言葉です。
 「金仏(こんぶつ)炉を渡らず、木仏(もくぶつ)火を渡らず 泥仏(でいぶつ)水を渡らず、真仏(しんぶつ)内裏に坐す」
 金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう。木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう。泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう。本当の仏は、それぞれの心の中に坐っているということです。
 では、心の中にある仏が「怒りや貪りや愚痴」をどのように制御していくのでしょうか?
 これを考える上でヒントになる言葉があります。中村天風(明治から昭和にかけて活躍した日本の思想家、実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し、心身統一法を広めた)の言葉です。                                   
 「心が空(くう)になったとき 人間はいちばん強くなる 人間の生命の本体は空である 空の世界に入れば 空の世界の驚くべき力が ぐんぐん生命の中に溢れてくる」    
  (以下③/⑤につづく)
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2014
12.20

「仏は働くか?」③/⑤

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03  [中村天風]

(「心が空(くう)になったとき 人間はいちばん強くなる 人間の生命の本体は空である 空の世界に入れば 空の世界の驚くべき力が ぐんぐん生命の中に溢れてくる」)

 天風の言う「心が空(くう)になったときの人間」というのが、一つのキーワードになるだろうと思います。それは、先に述べた“第三者”をさらに追求していった先にある、いわば究極の第三者とも言うべきものだと思います。
 禅では、それを「真人」「本来の面目」「主人公」「主中の主」などと呼びます。「這箇(しゃこ)」、「者裏(しゃり)という古い言い方もあるようです。
 ちなみに山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)は、それらを自我の自覚以前、自他の対立以前、知識以前、経験以前の『無』としてのお互いの本心と述べています。
 「空」は「から」とも読めるように、何もない状態のことです。しかし、仏教ではそれを単純にからっぽの状態とは捉えません。逆に「あるもの」によって、隈なく満たされている状態だとします。難しい概念ではありますが、敢えて説明を試みます。
 無色透明な寒天が、器の底に一様に薄く凝固している状態を考えてください。器の中は寒天に満たされているのに、無色透明であるために、それを認識することはできません。器を逆さまにしても寒天は流れ出さないので、それを確認できません。しかし、紛れもなく寒天は存在しています。これが「空」と呼ばれる状態です。「絶対無」とも言います。
  では、心が「空」になっているとき、その心を満たしている「あるもの」とは一体、何でしょうか?そして、それが、なぜ煩悩の炎を制御する力となるのでしょうか?   (以下④/⑤につづく)

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2014
12.24

「仏は働くか?」④/⑤

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04 
 

 残念ながら、私にはその答えを披瀝できる力量がありません。しかし、その「あるもの」を「あるもの」としてそのまま受け入れていけば、道は開けるようにも思うのです。
 本ブログでは、以前それを「大いなるいのち」と呼んだり、「万物の造物主」、「法」などと呼んだこともありました。また、“Something great”と呼んだこともありました。ただ、どのような呼び名も仮称に過ぎません。それを言葉で表すことはできないからです。それは、誰にも分からないものであり、説明できないものであり、問われても答えようのないものです。また、眼で見ることも、耳で聞くことも、鼻で嗅ぐことも、舌で味わうことも、手で触れることもできません。しかし、そうであっても、それは確かにあります。
 山も川も草も木も、また鳥も獣も虫も魚も、全てが「あるもの」の現成した姿です。もちろん私たち人間も例外ではありません。
 また、太陽や星が輝くのも、花が咲くのも、木が葉を茂らせるのも、また、ウグイスがさえずり、ホタルが光るのも、そして、それを私たちが観たり聴いたりして、美しいとか、心地よいとか感じるのも、全ては「あるもの」によってもたらされるものです。

 結局、究極の第三者というのは、この「あるもの」を「確かにある」と確信できる自分であり、さらにはそのときの自分がその「あるもの」と一つであると感得できる自分だと思います。つまりは、自分自身が「あるもの」そのものであるということです。
 では、そのことの自覚により、私たちにどのような変化が生まれるのでしょうか?  (以下⑤/⑤につづく)

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2014
12.28

「仏は働くか?」⑤/⑤

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05 

 それは、ものごとを俯瞰したり、達観したりする力として立ち現れてくるというのが私の見解です。具体的には、全体を広く見渡し見通すことで、こだわりや偏りから離れ、「自他一如」という真理を見極める力が増幅されるということです。それが、「怒りや貪りや愚痴」を制御する力として働き出すのではないでしょうか。
 中村天風は、それを「空の世界に入れば 空の世界の驚くべき力が ぐんぐん生命の中に溢れてくる」と表現しているのではないかと思うのです。「あるもの」のエネルギーが、自分自身のなかで闊達に働き出していることを喩えたものだと思います。
 このように、私が究極の第三者と呼んでいるものも、「あるもの」としているものも、本質においては同じです。仏も同様です。
 禅にあっては、仏は常に自分の内側にあるとされます。自分自身が仏であり、救われるのも自分なら、救うのも自分ということです。
 そもそも「怒りや貪りや愚痴」は自分がつくるものです。その意味では、自分でつくったものを自分で鎮められないはずはないということなのでしょう。「自他一如」の真理に目覚めた心によって、揺れ動く心を制御するということです。全ては自分自身の心の有り様にかかっているというわけです。禅が自力の宗教であるといわれる所以は、ここにあるのだと思います。
 結局、浄土門で尊崇される阿弥陀仏にしても、禅で説かれる「真人」「本来の面目」「主人公」などにしても、それが自他を超越した究極の第三者であることに違いはありません。それは「自他一如」の真理そのものでもあります。だからこそ、俯瞰する力や達観する力を持ち得るのだと思います。
 異なるのは、浄土門では、それが私たちの外にあるのに対して、禅では、内にあるということです(ただし、禅にあっては、最終的には内も外もありませんので、内にもあるし、外にもあるというような言い方にもなるのでやっかいなのですが)。
 したがって、どちらの立場を選んだとしても、この究極の第三者の存在を心底から確信できるか否かということが問われているのだと思います。そこに強固な信念があれば、救いの道は開かれているのだと思うのですが…。
 読者はどのように考えられるのでしょうか?  (〆)

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