2014
11.02

「子どもはみんな タッタカ走る」①/③

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 先日、ドライブをしていたとき、幼稚園(あるいは保育園)の園児が、下園する様子を目撃しました。園の外に出た子どもたちは、満面の笑顔で、弾けるように同じ方向に走り出していました。近くに保護者らしき女性の姿はありましたが、子どもたちは、それには全く目もくれない様子でした。とにかく、何の屈託もなく、駈け出しているその様子は、理屈抜きで微笑ましく、心に響くものがありました。同時に、子どもたちは、なぜあれほどまでに無邪気に走ることができるのかという疑問も湧いてきたのでした。
 そのとき、ある童謡が頭を過ぎりました。「おんまは みんな」という題した童謡です。アメリカ民謡に、日本の作詞家が詞をつけたものです。
 おんまは みんな / ぱっぱか はしる / ぱっぱか はしる / ぱっぱか はしる
 おんまは みんな / ぱっぱか はしる / どうして はしる
 どうしてなのか / だれも しらない
 だけど / おんまは みんな / ぱっぱか はしる / ぱっぱか はしる
 ぱっぱか はしる / おんまは みんな / ぱっぱか はしる
 おもしろいね
(以下、2番につづく)
 作詞者には非礼であることは承知の上で、一部を替え歌にしてみたいと思います。  
  子どもは みんな / タッタカ 走る / タッタカ 走る / タッタカ 走る
  どうして走る / どうしてなのか / だれもしらない         
  だけど / 子どもは みんな / タッタカ 走る / おもしろいね
 独断と偏見ではありますが、これでも十分に歌になるのではないでしょうか。
人間の子と馬を一緒にするとは何と不謹慎なことか、そのことにどのような意味があるのかなど、眉目を寄せられる読者も多いかと思います。しかし、幼気な子どもたちが走ることと、馬が走ることとの間に、果たしてどのような違いがあるのでしょうか。(以下、②/③につづく) 
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2014
11.06

「子どもはみんな タッタカ走る」②/③

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無題

 子どもたちが走ることに目的があるとは思えません。ただ、走りたいから走るのだと思います。また、「おんまは みんな」の歌にしても、この詞から浮かび上がるイメージからすれば、広い牧場で自由奔放に走り回っている馬たちに走る目的や意味があるとは思えません。子どもたちにしても、馬にしても、ただ走りたいから走るのだと思うのです。その一点において、何ら相違はないだろうと思うのです。
 ところで、このような光景を目にしたとき、それが私たちの心に響くのはなぜなのでしょうか。
 私見ではありますが、それは、そのような状態の中に、私の心(以下、私心とします)がないからではないかと思うのです。私心とは、自分を可愛いと思う心のことです。
 私心が無いことを指して、「無心」という言い方もあります。しかし、いつも言うように「無心」というのは、心が全く無くなってしまうことではありません。私心が消え、代わりに別な大きな心に満たされた状態が「無心」です。それは、先の歌詞の中にある「どうしてなのか / だれも しらない」 心と言ってもよいかと思います。
 私心は、我欲・我執・我見などとも同意です。私たちは、大人になるにつれて私心が肥大し、他者との軋轢を生じ、それよって苦しむことが多くなります。私心こそが、私たちの全ての苦悩の本源です。それをうまくコントロールできたら、どんなにか安楽に過すことができるかと思います。
 その点、子どもたちには私心が希薄で、その分、悩み事も少ないのだと思います。まして、馬に私心(人間のような強烈なもの)があるとは思えません。私たちは、そんな彼らの姿に接したとき、清々しさを感じたり、心が洗われたりするのではないでしょうか。
 ところで、『禅(思想としての禅)』がめざす方向も、こんなところに源があるように思うのです。(以下、③/③につづく)


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2014
11.10

「子どもはみんな タッタカ走る」③/③

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歩く 

 慧能(えのう)禅師が残した言葉に「“禅”とは心の異名なり」という有名な言葉があります。難解な言葉ではありますが、簡単に言えば、“禅”というのは、心の一部であるということです。つまり、心から、私心を排除した残りの心が“禅”(絶対的主体性)であるということです。そして、この“禅”に満たされた様子を「無心」とするのです。
 『禅』では「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」に“禅”(無心の状態)があるとされます。「行」は、歩くこと、「住」は、止まること、「坐」は座ること、「臥」は、横になる(寝る)ことです。『禅』の教えによれは、日常生活の中に、ごく当たり前に「無心」になれる状態があるということです。
 その通りではないでしょうか。歩く、止まる、坐る、寝るなどの行為も、そこに至る段階までは、自分の意思や意図、都合などが働きますが、一旦、その「こと」と一つになってしまえば、ほとんどの場合、それらは消えているはずです。歩いているとき、「歩こう」などとは思っていないはずですし、止まっている(じっとしている)ときや坐っているとき、寝ているときも、「止まろう」「坐ろう」「寝よう」などとの想いはないはずです。そんなときには、身体の働き(あるいは自然)に任せているのだと思うのです。だれに指示や命令、強制をされたというわけではありません。当然、私心が入り込む余地もありません。
 また、勝手な想像ではありますが、働くという行為についても、熟練の職人が仕事に臨んでいるときなどは、私心から離れ、自然に身体が動いているのではないでしょうか。
  このような観点から一日の生活を振り返ったとき、「無心」で動いていることは案外多いことに気づかされます。無職の身であることもあるかと思いますが、私の場合、一日の8~9割は、そんな時間を過ごしているように思います。
 ただ、その場合、「おんまは みんな」の歌のように「おもしろいね」といかないところに難点があるのかも知れません。しかし、『禅』が教えてくれるのは、そのときこそが、人間として最も理にかなった、自然な在り方であり、その意味では、最も幸せなときだということです。
 初老期に入った私には、子どもたちのようにタッタカと走ることはできませんが、それでも、まだタッタカと生きていける場面は多く残っていると考えているのですが…。   (〆)

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次回は、「どっこしょ!」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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2014
11.14

『どっこいしょ(六根清浄)』①/③

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 「どっこいしょ」、重い物を持ち上げるとき、階段を上がるとき、あるいは椅子から腰を上げるとき等など、無意識にこんなかけ声をかける人は多いのではないでしょうか。かく言う、私などは、年々歳々、その回数は増えるばかりです。
 この「どっこいしょ」の語源について、面白い説があることを知りました。その語源は、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」にあるというのです。
 試しに「六根清浄…」「六根清浄…」「六根清浄…」と早口で繰り返していくと、だんだん「どっこいしょ」に似た響きになるから不思議です。
 ところで「六根清浄」と言えば、修験道にあって、信仰する山へ登るときに唱えられるものとして知られています。曰く「懺悔(ざんげ)、懺悔、六根清浄」と。そこで、この「六根清浄」ですが、次のような意味があるようです。
 『般若心経』の中に「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)」、という経文がありますが、「六根」というのは、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、知覚の六つを司る感覚器官(あるは感覚機能)のことを指します。これによって認識されるのが、色(姿)であり、声であり、香りであり、味であり、触であり、法(思い)ということになります
 「清浄」とは、清らかで汚れのない状態のことです。したがって、「六根清浄」というのは、六つの感覚器官(感覚機能)を清らかで汚れのないようにすることになります。
 では、なぜ私たちは「六根」を「清浄」にしなければならないのでしょうか。 それは、本ブログでも、これまでも繰り返し述べてきたように、私たちの六つの感覚機能が独立した形では機能しないからです。「六根」は、それが働くとき必ず「わたし(自我)」の影響を受けることになります。どの機能も、「わたし」の好みや癖、都合などによって、本来の働きが抑えられてしまいます。そのため、いつも正しい認識ができるとは限りません。そのこともあり、「六根」のことを「六塵(ろくじん)」、つまり六つの塵(ちり)と呼ぶことさえあります。
 小学生の書いた「運動場」という短い詩があります。
  せまいせまいなといって
  みんなが遊んでる。
  朝会のとき石を拾わされたら
  広い広いなといって拾っていた

 子どもの素直な反応の表れた、微笑ましい詩です。しかし、これが人間の知覚の実態なのです。運動場の広さは変わらないのに、あるときは狭く、別のあるときは広く感じてしまう…。大人にも、これによく似た経験はあるだろうと思います。
(以下、②/③につづく)
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2014
11.18

『どっこいしょ!(六根清浄) 』②/③

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 もう一つ、別な例をあげたいと思います。目の前に幅50センチの平坦な道があったとします。狭い道ではありますが、この道の両側に遮る物は何一つありません。この道を歩くことに困難を感じる人はいないだろうと思います。
 ところが、幅50センチの道の両側が、眼下100メートルもの断崖だったとしたらどうでしょう。この道を、先の道と同じように歩ける人はどれくらいあるのでしょうか?極度の高所恐怖症の私なら、一歩も前を進めないばかりか、その場でへたり込んでしまうと思います。
 道幅50センチに何の変更もありません。歩くだけなら、何の問題はないはずです。ところが、周囲の環境が変わるだけで様相は一変してしまいます。そこに「六根」に惑わされ、恐怖に戦(おのの)く「わたし」が立ち現れてくるからです。そして、その「わたし」が、断崖から落下したときの自分の姿を勝手に思い描いてしまうのです。
 このように、「わたし」が関与することで、「六根」からの情報は、歪められることがあります。したがって、いつも正しい認識が得られるわけではありません。私たちは、常にそのことを自覚しなければならないと思うのです。
 また、これら感覚機能の働きは人によって異なります。それぞれの人に「わたし」があり、その「わたし」を中心にして外の世界の情報を収集しています。一つの事象に出会ったとしても、捉え方は様々です。10人いれば10通りの世界観があり、100人いれば100通りの世界観があります。自分が獲得した認識が全て正しいとは限りません。そのことをよくよく理解しなければならないと思うのです。
 偉そうに聞こえるかも知れませんが、世界中で起こっている戦争や紛争も、それぞれの為政者(政治のリーダー)たちの、このことへの無理解・無自覚が主因だと思うのですがいかがでしょうか。(以下③/③へつづく)
 
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2014
11.22

『どっこいしょ!(六根清浄)』③/③

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 このように、私たちの「六根」つまり感覚器官(感覚機能)は、あてにならないということです。「六根清浄」…、それは、「わたし」に頼らないで、無心(本来の心)のままに臨むことの大切さを言っているのではないでしょうか。足下に100メートルの断崖があったとしても平然と歩いていける力、これが「六根清浄」から生まれる力、言い換えるなら「無心」から生まれる力だと思うのです。
 このように考えてくると、「六根清浄」、いえ、「どっこいしょ」は、感覚器官(感覚機能)とは全く別な形をとって、私たちの内側から発せられる、いわば「天の声」のようにも思えてきます。曰く、「無心になれ、無心になれ。そうすれば素晴らしい力が湧いてくるぞ」と。
 最後に詩を紹介したいと思います。作者不詳です。

 無心で臨むとき 最高の力が発揮されるという。
 そのとき 心の中では何がなくなるのか。
 なくなるのに それができるのはなぜか。
 それをさせるものがあるとするなら それはいったい何か。
 それこそは 時空を超え
 大宇宙の中に吸収され 溶け込み 大宇宙の営みと一体となった自分
 「眼」もなく「耳」もなく「鼻」もなく「舌」もなく「身」もなく「意識」もない自分
 「仏」と呼ばれる自分 臨済が説いた「真人」という名の自分
 私たちがそれに気づけないのは 
 それが あまりにも近くにあり あまりにも遠くにあるから。
 それゆえに 
 「悟り」に至るには 
 気の遠くなるような長い道のりを歩まねば辿り着けないとも言えるし
 もうすでに到達しているとも言える。
 だから いま ここを 生きていけばいい。


 日々の生活の中で、私たちが「六根」を「清浄」にするには、ただそのことに成り切る…、そして、心を込めそのことに当たっていく…、こんなことしかないのだろうと思います。そのとき生まれる力がどのようなものか分かりません。でも、そこに最高の力が発揮されることを信じたいのです。
 これからも、ときあるごとに、遠慮なく「どっこいしょ」とやっていきたいと思っています。(〆)



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次回は、「『ハイ!』で悟る」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。



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2014
11.26

ギャラリー31

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     ◎これまで掲載した水をテーマにした写真を「ギャラリー31」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと 

1[豊田市 阿知波池]
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2[豊田市 阿知波池]

31-2 

3[豊田市 阿知波池]
31-3 

4[豊田市 阿知波池]
31-4 

5[自宅の庭]
31-5 kodomo 2 

6[碧南市 臨海公園]
31-6 kodomo 3 

7[碧南市 海浜公園]
31-7 dokkoisyo IMG_5195トリ 

8[碧南市 海浜公園]
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次回は『「ハイ!」で悟る』を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。


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2014
11.30

「ハイ」で悟る①/③

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rinzai0043.jpg [臨済禅師(白隠画)]
  
 「臨済録(りんざいろく)」の行録(あんろく)の中に面白い逸話があります。行録というのは、僧侶の行状伝記を記録したものです。昔の禅僧は、道場での修行が済むと、諸国を行脚して、これはという師匠と問答による他流試合をしたようですが、そのときの様子を記録したものです。
 後に臨済宗の宗祖となる臨済義玄禅師(唐代に活躍した高僧)も例外ではなく、直接の師匠である黄檗(おうばく)禅師のもとで悟りを開いた後、諸国に出て、何人かの有名な師匠のもとに出向いて問答をしています。そのときの様子を記したものの一つが、今回紹介する話です。ただし、相手は僧侶でなく、一人の老婆です。
 「無文全集」(禅文化研究所発行)に収められている山田無文老師の提唱(講義)の中から紹介したいと思います。
 臨済が道で一人の老婆に出会った。(中略)この婆さん、いつも鳳林寺へ行って提唱を聞いたり、雲水の相手になっておるだけのことはある。臨済を呼び止めて尋ねた。
「雲水さん(訪ねてきた臨済のこと)、どこに行きなさる」
「これから鳳林寺へお訪ねしたいと思っておる」
「せっかくだが、和尚はこのごろお寺におらんよ」
この婆さん、なかなかしたたかものだ。和尚がおろうがおるまいが、そんなことは問題にしておらんのである。
「そうか、和尚は留守か。どこへ行かれたかな。」
すると婆さん、黙ってサッサと自分の行く方向へ行ってしまった。この通りにいきよったわいと言わんばかりである。すると臨済が
「ちょっと、ちょっと婆さん」
と呼ぶと、婆さんがフッと後ろを振り返った。そこで臨済は、だまって、知らん顔して行ってしまった。これは婆さんの負けだ。
 有名な師匠との問答の場面ばかりを記した行録の中にあって、一人の老婆とのやりとりを取り上げているのは極めて異例です。他の話は、すべて禅僧とのやりとりですので、そのこと自体、たいへん珍しいことではあります。
 ただ、これを見る限り、臨済の人の悪さに眉目を寄せる読者も多いかと思います。老婆の人の悪さもなかなかですが、臨済はその上を行っているようにも映ります。また、それが老婆への報復を意図するものだとしたら、仏教徒にあるまじき行為です。(以下②/③につづく)

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