2014
10.01

「喫茶去」(お茶でも召し上がれ)②/③

Category: 未分類
220px-Zhaozhou_Congshen-Fozu_zhengzong_daoying37.jpg [趙州禅師像]

 趙州禅師(以下、禅師とします)のもとに一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。禅師は、問いかけます。
「お前さんはこれまでに、ここに来たことがおありかな?」 
僧は答えます。
「はい、以前にも参りました」 
 禅師は言います。
「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
 またあるとき別の修行僧がやって来ます。
禅師は、同じように問いかけます。
「お前さんはこれまでに、ここに来たことがおありかな?」 
僧は答えます。
「いいえ、ここに来たことはありません」 
 禅師は、言います。
「喫茶去」(そうか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
 これを聞いていたこの寺の住職は
「和尚はここに来たことのある者にも、はじめての者にも同じことを言われますが、どういうわけなんですか?」
すると禅師は、これには答えず言います。
「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ)
 このときこの住職は、はっとして悟ってしまいまいました。

 たいへん不思議なやりとりではあります。趙州禅師の本意はどこにあったのでしょうか。これには、さまざまな解釈があるようです。
 一つには、過去と現在、あちらとこちらなどという、一切の分別、取捨を断ち切った、絶対の境地を披瀝したものであるという解釈です。つまり、時間も空間も超えた、いわば「空」の世界を味わってごらんなさいというメッセージです。
 もう一つにはお茶をいただいて、それを出してくれた人の心と一つになってごらんなさいというメッセージです。そこには、師匠と弟子、あるいは凡と聖、貴と賎、老と若などの区別はありません。それぞれ立場の違う三人ではありますが、お茶を飲むという行為に限るなら、そこに何の区別も差別もありません。いわゆる「自他一如」です。そこを味わいなさいということです。
 そして、さらに一つ、私的な解釈を追加させていただくなら・・・、(以下、③/③につづく)



IMG_4573.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。


スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2014
10.05

「喫茶去」(お茶でも召し上がれ)③/③

Category: 未分類
t,12 

 そして、さらに一つ、私的な解釈を追加させていただくなら、人間の持つ本来の感覚を大切にしなさいというメッセージです。
 お茶を飲んだ後に、どんな味がするのでしょうか。そのときお茶の味がすれば、それが素晴らしいことなのではないかということです。いえ、それ以上のことはないのではないと思うのです。
 慧能(えのう)禅師は「本来無一物ほんらいむいちもつ)」と言いましたが、もし自分の心の中に「一物」、つまり、わだかまりやこだわり、たくらみなどがあったとしたら、お茶の味はどうなるでしょうか。美味しいはずのお茶の味も、美味しいと感じないかも知れません。あるいは、お茶の味がしないかも知れません。ときには、何を飲んだか分からないようなことすらあるでしょう。
 ことほど左様に、人間の感覚は、その時々の心の有り様に影響されることがあります。それは、視覚、聴覚、臭覚、触覚など、他の感覚の場合にも当てはまるものだと思います。「無心」にお茶を飲み味わっているときが、一番、美味しくお茶をいただけるときであり、最も幸せで、尊いときだと思うのです。
 もっとも、こんなふうに考えれば、そんな場面は日常生活のどこにでもあるのではないでしょうか。何気ないことでも「無心」にその「こと」にあたり、その「こと」と一つになるっているとき、私たちの諸感覚は最高の状態にあり、最も充実した時間を過ごしているということです。
 趙州禅師からお叱りがあることは承知の上で、この話の後の展開を創作してみました。「喫茶去(茶でも一服おあがりなさい。)」の後のやりとりです。
 禅師は僧に問います。
 「ところで、どんな味がしたかね?」
 僧が答えます。
 「お茶の味がしました。」
 禅師は、笑顔で言います。
 「それは結構。」
 少し飛躍するかも知れませんが、これが、江戸時代に活躍した傑僧、白隠(はくいん)禅師がその『坐禅和讃』の中で詠う「当処(とうしょ)すなわち蓮華国(れんげこく)その身すなわち 仏なり」ということなのではないでしょうか。つまり、禅の思想によれば、蓮華国(極楽)も仏も、決して死後の世界のことではなく、現実の世界の中にあるということです。私は、この考え方に大きな共感を覚えるのです。
 あまり難しいことは考えず、これからも毎日、我流で抹茶を点て、いただきたいと思っています。(〆)

IMG_4580.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。

次回は、『猫を斬り捨てる』を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

Comment:10  Trackback:0
2014
10.09

「ネコを切り捨てる」①/⑤

Category: 未分類
01


 ネコを飼っています。人見知りの激しいネコですが、その分、家の者には、心を許してくれるので、家族にかわいがられています。ただ、その変わり身の早さには驚かされます。ちゃっかり膝に入り込み、あごの下をなでてもらって機嫌良く喉を鳴らしていたかと思うと、突然、怒りだし、爪や歯を立てるのがそれです。そんな様子を見ては、ネコというのは、「分からない」動物だというのが、家族の共通する意見ではあります。しかし、私自身はと言えば、ネコのその「分からなさ」に魅力を感じるのです。

 そこで、今回は、そんなネコにまつわる禅問答を紹介したい思います。禅問答集「無門関」の第14則にある「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」という話です。唐代に活躍した中国の禅僧が、ネコを真っ二つ斬り捨ててしまったという、ショッキングな話がもとになっています。あらましは次のようです。
 僧堂に一匹のネコが現れます。そのネコをめぐって修行僧たちの間に些細なもめ事が始まります。そこを通りかかった南泉禅師(なんせんぜんじ)は、ネコをつかみ上げ、「このネコの真実について、一言で言い当てればよし、さもなければ、一刀のもとにネコを斬り捨ててしまうぞ」と迫ります。
 ところが、修行僧たちは、うろたえるばかりで、誰一人としてこれに応じることができません。その体たらくぶりに落胆した禅師は、やむなくネコを斬り捨ててしまいます。
 ちなみに、南泉禅師は、無類のネコ好きであったとも伝えられていますから、図らずも不殺生戒を犯してしまった禅師の心痛は、察して余りあるものがあります。(この話には後半がありますが、今回は省略します。)
 たいへん難しいとされている禅問答であり、私のような素人には、全くとりつく島もありません。果たして、このとき修行僧たちは、どのような対応をしたら禅師から許されたのでしょうか。(以下、②/⑤につづく)
IMG_4441.jpg 

※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2014
10.13

「ネコを斬り捨てる」②/⑤

Category: 未分類
02 
 この禅問答では、南泉禅師が斬ったのは何かということが求められるようです。当然のことながら、「ネコ」では、答えになりません。厳しい修行の一環として行われるのが禅問答であり、その答えが簡単に分かるわけではありません。また、それが一般人に理解できるように明示されているわけもありません。
 書物などで紹介されている回答例としては、「二元対立の世界」を斬り捨てた…、あるいは「尊卑の固定観念」を覆した…などの説明がありますが、これらは理屈であり、この答えをもって合格点をもらえるとは思えません。「不立文字(ふりゅうもんじ)」とも言われるように、禅の世界にあっては、真理は、言葉や文字を超えたところにあるのですから…。
 ただ、そうは言っても、たいへん気にかかる話ではあります。凡庸な私などは、南泉禅師に許される答えとは果たしてどのようなものか、気になって仕方がないのです。
 ところで、この逸話について、たいへん興味深い事実があることを知りました。中国の五大十国時代に編纂された禅宗の書物「祖堂集」によると、次のような後日談が残されているというのです。保寧和尚(ほねいおしょう)にまつわる話として紹介されていました。
 保寧和尚は、この話を聞くと、次のように述べたとありました。
わしがその場に居合わせたら、ただ首を差し伸べて、南泉の前面に向かおう
 いったい、どういうことなのでしょう?
 すでに悟りを開き、人間の自我を捨て去った保寧和尚にとっては、自分も猫も同じだったということなのでしょうか。まさに「自他一如」の境地から発せられた言葉なのでしょう。「二元対立の世界」の否定とも言えるかと思います。
 修行僧たちの中に、保寧和尚のように応じる者がいたとしたら、南泉禅師は、ネコを斬らずに済んだかも知れません。
 しかし、これは、あくまでも仮定の話であり、真相は闇の中といったところでしょう。話はまだ続きます。(以下、③/⑤につづく)

IMG_4447.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2014
10.17

「ネコを斬り捨てる」③/⑤

Category: 未分類
03 
 この問題について、後日、ある修行僧が、師である徳山(とくさん)和尚に尋ねます。
 「南泉が猫を斬ったのはどういうつもりだったのでしょうか」。
 すると、徳山和尚(以下、師とします)その修行僧をいきなりぶん殴ります。たいへん荒っぽいことなのですが、禅にあっては、決して珍しいことではありません。弟子を「悟り」に導くために、師匠は、よくこのような方法をとります。詳しくは触れませんが、そこには深長な意味があります。
 殴りつけられた修行僧は、驚いて逃げ出します。ところが、師は、逃げる修行僧(以下、「甲」の修行僧とします)を呼び戻して問い正します。
「わかったか!」
「わかりません」
「わしがこれほど老婆親切にしてやっているのにわからんのか」
 師は、落胆します。
 そして、師は、かたわらでその一部始終をみていた別の修行僧(「乙」の修行僧とします)に尋ねます。
「おまえはわかっているな」
「わかりません」
 「乙」の修行僧は、「甲」の修行僧と同じように答えます。ところが、師は、「乙」の修行僧の答えを受け入れます。そして、次のように言います。
「その分かりませんを、そのまま保っていきなさい」 
  師が、「甲」の修行僧を殴りつけた理由は何だったのでしょうか。そして、逃げ出したこの修行僧を呼び戻してまで問いかけた意味は何だったのでしょうか。「甲」の修行僧は、このとき何と答えれば、師に許されたのでしょうか。
 また、同じ答えをしたのに「乙」の修行僧は、なぜ許されたのでしょう。さらに、「分かりませんをその保つ」とは、どういうことなのでしょう。疑問は膨らむばかりです。
 以下は、いつものように独りよがりの解釈です。(以下、④/⑤につづく)

IMG_4604.jpg 

※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2014
10.21

「ネコを斬り捨てる」④/⑤

Category: 未分類
04 

「甲」の修行僧と、「乙」の修行僧の答えに違いはありません。いずれも「分かりません」がその答えです。
 何が分からなかったのかが問題だと思うのです。「甲」の修行僧が殴られた状況と、ネコが斬りつけられた状況はよく似ています。両者とも、いきなり、とんでもない災難に見舞われています。したがって、この時点で、「甲」の修行僧は、ネコの気持ちに寄り添えるチャンスがあったのです。いえ、禅的な言い方をするなら、“ネコになるチャンス”があったのです。
 ネコにしてみれば、何が起こったのか全く分からなかったはずです。したがって、答えは「分かりません」でよいのだと思うのです。ところが、「甲」の修行僧は、師から殴られ、逃げ出してしまいました。そして、呼び戻され、「分かりません」と答えています。これは、修行僧自身の答えであり、ネコの答えではありません。これでは、禅の修行になりません。師が落胆したのは、そのことにあるのだと思います。
 では、「乙」の修行僧はどうでしょう。「乙」の修行僧も、「分かりません」と答えています。しかし、師はこの「分かりません」を許しています。
 推測ですが、「乙」の修行僧は、「甲」の修行僧と師とのやりとりの中から、大いに気づくところがあったのでしょう。
 それは、ただ一つ、“ネコに成り切る”ということだったのだと思います。想像ではありますが、師は、「乙」の修行僧の「分かりません」が、ネコの立場での「分かりません」であることを見取ったのではないでしょうか。

 では、「分かりませんを保つこと」とは何のことなのでしょう。(以下、⑤/⑤につづく)

IMG_4455.jpg 

※クリックすると拡大して見られます。


Comment:2  Trackback:0
2014
10.25

「ネコを斬り捨てる」⑤/⑤

Category: 未分類
05

 考えてみればネコはとんだ災難でした。いきなり斬り捨てられ、絶命することになったのですから…。まったく理不尽なことです。
 しかし、よく考えてみれば、私たち人間も同じようなことが言えるのではないでしょうか。明日のことは分かりません。1時間先、1分先、いえ1秒先のことだって分かりません。まさに、一寸先は闇です。
 東日本大震災の例を出すまでも災害は、突然やってきます。そして、何の理由もなく、私たちの大切なものを奪い去ってしまいます。また、様々な事故や病気なども、私たちの都合とは全く無関係です。予告もなく突然やってきて、気がついたときには、その真っ直中にあるというのが、事故や病気ではないでしょうか。その意味では、私たちは、全く理不尽な世界に生きていることになります。
  「分かりませんを保つこと」…。それは、これまでも繰り返し述べてきたように、「大いなる命」(Something great)によって営まれる大自然の原則に身を委ねて生きているという事実を言っているのではないでしょうか。「自然の分身」を縮めたものが「自分」であるとされるように、本来、人間は、自然の一部です。人間は、自然の法則に随い、自然の営みの中で生きていく宿命にあります。そこに人間の自己都合は通じません。
 過去のことは変わりません、未来のことは分かりません、ただ現在があるだけです。「分かりませんを保つこと」というのは、「今、このとき」を一生懸命に生きていくこと言ったのではないかと思うのです。
  思えば、我が家のネコも自然の一部です。意味もなく歯を立てたり、爪を立てたりしますが、それでいいのだと思います。その「分からさ」がネコの自然の在り方なのですから…。そう考えると、その不可解な行動も、全く、気にならなくなるから不思議です。
 「南泉斬猫」は、私のような凡人にはとても歯が立ない禅問答ではあります。ただ、そうであっても、「自他一如」に徹することの意味、そして、「生きる」ことの意味をより深く、より厳しく考え進めていく上で、大きなヒントを与えてくれているように思うのです。(〆)


IMG_4612.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:3  Trackback:0
2014
10.29

ギャラリー30

Category: 未分類
   ◎これまで掲載した水をテーマにした写真を「ギャラリー30」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと 

1 [海津市 国営木曽山川公園]
 30の1 IMG_3560トリ修正 

2 [岐阜市 岐阜公園]
IMG_4436.jpg 

3 [岐阜市 岐阜公園]
IMG_4441.jpg 

[岐阜市 岐阜公園]
IMG_4447.jpg 

  [岐阜市 岐阜公園]
IMG_4455.jpg 

6[豊田市 阿知波池]
IMG_4604.jpg 

7[豊田市 阿知波池]
IMG_4573.jpg 

[豊田市 阿知波池]
IMG_4580.jpg

次回は『子どもはみんなタッタカ走る』を掲載(3回配信)します。
Comment:0  Trackback:0
back-to-top