2014
09.03

「二つの円」から①/⑤

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dekarutoico.jpg  [ルネ・デカルト]

  友人と会話をしていたとき、デカルトの説いた「我」と禅における「我」とはどのように違うのかという問題が投げかけられました。デカルトの「我」というのは、有名な「我思う故に我あり」という言葉に込められた「我」のことです。これに対し、禅が追求する「我」というのは、臨済禅師が説いた「真人(しんにん)」という概念に象徴されるものです。この二つの「我」には、自ずから大きな質的な違いがあります。その違いを説明するように求められたのです。
 少し横道にそれますが、デカルトの思想について調べてみるとは、次のような説明がありました。
 「『我思う故に我あり』という命題は、保守的な「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」といわれる所以である…」
 浅薄な知識をもとに補足したいと思います。現代であればごく当たり前である「我(私)」という概念こそは、デカルトによって確立されたものです。ただし、デカルトは、神そのものを否定してはいません。神の存在を認めながらも、疑う余地のないものとして「我」があることに目覚め、それを「近代的自我」として宣言したのです。その意味では、キリスト教の思想の中に楔を打ち込んだことになります。
 近代以降の文明の発展は、この「近代的自我」の確立と深い関係にあるというのが定説です。「我」のもつ人間の根源的なエネルギーが、近代文明を牽引し、発展に導いてきたということです。近代文明の発展とデカルトの説いた「近代的自我」とは、まさに車の両輪の関係あるというわけです。
 最初から、たいへん理屈っぽい話になってしまったことをお詫びします。話を元に戻したいと思います。(以下、②/⑤につづく)



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2014
09.07

「二つの円」から②/⑤

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座禅姿~1 

 そこで、デカルトの「我」と禅が説く「我」との違いです。このとき、とっさに「禅とは心の異名なり 心は禅の身体なり」という一文が思い浮かびました。そして、これを足がかりにして、説明を試みました。ただし、このとき、「我」と「心」は、同意語としました。
 ただ、この一文そのものがたいへん難解です。一般に「禅」というと、通常「坐禅」が連想されるのではないでしょうか。脚を組み、眼を半眼に閉じて瞑想することのが「坐禅」です。ところが、禅では、「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」に禅があるとも言います。「歩く」「止まる」「坐る」「横になる」ことにも禅があるということです。また、服を着ること、食事をすること、トイレに行くことにも禅があると言います。
 それが「心」とどのような関係にあるのか。異名と言うことではありますが、ここで述べられる「心」と「禅」とは、その本質は同じものなのか、それとも別のものなのか。また、「心は禅の身体である」というのは、何のことを述べたものなのか。 うまく説明できず、かえって混乱させてしまうのではないか。そんな思いも抱きながらも説明を初めました。      
 先ず、机の上に円を描き、これをデカルトの説いた「我」に喩えました。人間の理性に基づく、いわゆる「近代的自我」に当たる部分です。したがって、その外側は、キリスト教の思想に彩られた世界ということになります。
 次に、その内側にそれより小さな、二つ目の円を描きました。そして、この円を「禅」に喩えました。(以下、③/⑤につづく)  

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2014
09.11

「二つの円」から③/⑤

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  2011_5~1
  二つ目の小円は、「我」に内包されますが、「我」そのものではありません。特異な存在としての、もう一人の「我」です。いつも引用している、山田無文老師の言葉を借りれば、「顔もない、目玉も鼻もない、ずんべら坊のような化け物のような奴だが、こいつを一目見れば、もう病みつきで、もう一日も忘れることができない」…、こう喩えられる自分です。これが「禅とは心の異名なり」という表現になるのだと思います。
 では、その小円に喩えた、心の異名とされる「禅」とはいったい何か?
 これに対しては、「三昧(ざんまい)」という言葉がキーワードになるだろうと思います。つまり、その「もの」や「こと」と一つになり切るということです。そこに、「我」が入り込む余地はありません。少しでも入り込むようなら、「三昧」とは言えません。毀誉褒貶(きよほうへん)を顧みない在り方です。  
 「三昧」に徹し、心の異名とされる「禅」の世界に浸ると、劇的な変化が起きます。最初に描かれた外側の円の枠は消滅し、内側の小さな円が無限に広がっていることに気づくことになります。小さな円で表した、もう一人の「我」こそが、本来の自分であったということです。いえ、もともと外側の円はなかったのです。 
 少し飛躍するかと思いますが、あるのは時空を超え、大宇宙の中に溶け込み、大宇宙と一体となった、どこまでも純粋な「我」だけです。「禅(通常使われる意味での禅)」にあっては、その様子を「三世十方に充満する」などと表現されます。
  「近代的自我」を確立し、キリスト教の思想の中に楔を打ち込んむことになったデカルトの業績は、称えられるべきものです。しかし、仏教ではその「我」も否定します。そして、それを否定したところにあるもう一人の「我」こそが尊いと主張します。 (以下、④/⑤につづく)    

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2014
09.15

「二つの円」から④/⑤

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  全くの私見ではありますが、仏教の考え方によれば、キリスト教の思想も、結局は「我」という範疇に含まれるということなのだと思います。その成り立ちや歴史への影響力、思想的な広がりなど、デカルトの示した「我」とはスケールこそは異なります。しかし、そこで説かれているのはキリスト教の世界観に裏打ちされた「我」です。批判を恐れずに言うなら、主イエス、あるいは創造主に対して跪く「我」ということになるのかと思います。
 仏教を説いた釈迦は、紀元前4世紀の人です。17世紀に登場するデカルトの存在やその思想を知るよしもありません。しかし、このように見てくると、仏教の思想は、その発生の時点からすでに、キリスト教の思想も、またそれに対峙する形で登場したデカルトの思想をも否定する形で成立していたと言えるのではないでしょうか。いわゆる「否定の否定」です。
 では、「我」を否定した先にはどのような「我」があるのでしょうか?これについては、先にも書いたとおりです。テーブルの上に描いた最初の円は、消滅します。同時に、その内側にあった小さな円が無限に広がっています。その意味では、その上に円が描かれた「テーブル」そのものが「我」ということになります。
 これを別の言葉で置き換えるなら「大宇宙」です。そこは「我」に満たされ、「我」でないものはありません。「我」という呼び名さえも不要です。そもそも「我」などというものは、本来なかったのですから…。
 こんなことを言うと、何もないものを追求することに意味があるのかという声が聞こえてきそうです。 (以下、⑤/⑤につづく)

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2014
09.19

「二つの円」から⑤/⑤

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 私が、なぜこれまでにして「心の異名」とされる禅にこだわるかということですが、禅を通して世界を見たとき、そこに広がっている「自他一如」の世界、つまり「絶対平等」の世界に大きな魅力を感じるからです。禅の眼から見れば、全てのものは一元に帰します。何の差別もありません。Something greatにより営まれる世界です。
 先にも書いたように、デカルトの説いた「我」は、近代文明の発展に大きな役割を果たしました。しかし、今回の原発事故にも象徴されるように、今、文明そのもの意味を問い直さねばならない時代に入ったと言えます。文明の持つ「光の部分」と「陰の部分」をしっかりと見極める必要があります。
 文明の「陰の部分」への警戒を疎かにした先にあるのは、果てしない欲望の暴走だけです。無人兵器やロボット兵器の開発、あるいは化学兵器の開発は、絶対に許してはならないと思います。 また、様々な形で行われている遺伝子操作も本来は避けるべきでしょう。 
  デカルトの説いた「我」を蔑ろにして、私たちの社会生活は成立し得ません。しかし、その「我」も、「絶対平等の世界」から生まれ、やがては「絶対平等の世界」に還っていく運命にあります。すべては、Something greatの一部であるということです。この事実は、永遠に揺らぐことはありません。問題は、それを私たちがいかに実感し、どう生活の中に生かしていくかだと思います。
 この揺らぎない事実に照らして、私たちの生活を見直したとき、その先に見えてくるのが吾唯足知(われただたるをしるという生活スタイルになるのではないでしょうか。自らの奥底に潜む「貪欲(とんよく」に向き合い、これを少しでも抑えながら生活していくことです。
 図らずも、私のニックネームである「じ・た・る」の語源にたどり着くこととなりました。読者の皆さんからのご感想をお待ちしています。(〆)

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2014
09.23

ギャラリー29

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  ◎これまで掲載した水をテーマにした写真を「ギャラリー29」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと

今回の写真の1~5は、阿知波池(豊田市)です。池に設けられた柵の水面への映り込みですが、風と光、撮影角度によって多様にその表情を変化させます。水の「無相性」を実感させます。
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6(岡崎市 東公園) 
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7(岡崎市 東公園)
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次回は『喫茶去(きっさこ)』を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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2014
09.27

「喫茶去」(お茶でも召し上がれ)①/③

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茶道1212

 最近、毎日、抹茶を飲んでいます。作法は知りません。また、元来、横着なため、特定の作法を学ぼうという思いもありません。アルコールを受け付けない体質であるために、小さな贅沢のつもりで、飲みたいときに点て、気軽に飲んでいます。
 外出先で抹茶をいただくことがあります。しかし、その都度、自分の点てたお茶との味の違いを感じます。どうしたら、このように美味しく点てられるのだろうかというのが、そのときの感想です。
 抹茶の品質、お湯の沸かし方、その温度、茶筅の使い方など、さまざまな要素が味に影響するのだと思います。しかし、今は、そのことにあまりこだわらないようにしています。抹茶を飲むことによって味わうことのできる、ふくよかな時間が好きなのです。
 ところで、ご承知の通り、茶の湯は、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)という禅語もあるように、禅に深い関係があります。茶の苗木は、平安時代の末、日本の臨済宗の祖とされる栄西禅師が日本に持ち帰ったものです。
 詳しく調べてみると、鎌倉時代、臨済宗興隆の基礎を築いた円爾弁円(えんにべんねん)禅師が定めた喫茶儀礼の作法が、茶の湯の原形になったようです。その後、南浦紹明(なんぽじょうみょう)禅師は、禅宗茶令という仏前にお茶を供える儀式を伝えますが、それが京都・大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)禅師を経て、茶の湯の開祖、村田珠光(むらたじゅこう)へ受け継がれ、さらにその弟子の武野紹鴎(たけのじょうおう)を経て、千利休に継承されて、今日見られるような茶道の確立があったとありました。
 そこで、今回は、禅語の中でも特に有名な「喫茶去(きっさこを取り上げてみたいと思います。中国、唐代に活躍した高僧、趙州(じょうしゅう)禅師にまつわる逸話の中に出てくる言葉として伝えられているものです。「喫茶去」というのは、「お茶を一服いかが」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」という程の意味があるようです。次のような話です。(以下、②/③につづく)

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