2014
08.02

「お経で健康になる」③/③

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 こんなことを言うと、経文の意味や内容の軽視につながるのではと思われる読者もあるかも知れません。しかし、経文そのものを陀羅尼(呪文)と捉えるなら、そこに記されている意味や内容を知ることは、明らかに第二義的なことになります。いえ、私の経験では、むしろ読誦中は、それを考えない方がよいと思います。そんなことをしていると読み違えをするのが落ちです。
 それに、意味や内容をあれこれ考えたりする自分こそが、玄侑氏の言う、解体すべき「私」なのではないでしょうか。私たちは、ともすると自分の都合に合わせてその文言を解釈し、理解・納得してしまう傾向があるものです。そのときの「私」こそは、病める凡夫の姿と重なるものだと思います。
 経文と一つとなって、ただ無心で読む…、読むことだけに専念する…。そして、そのとき読誦している主体は、「私」、つまり、○山△男ではないということです。
 では、読誦しているのは一体誰なのでしょうか?
 玄侑氏は、それを「からだ」「いのち」と言ってます。これを別な言い方をすれば「空」の力でしょう。ブログ「沈黙の愛情」(2014.5.30~6.3)の中で紹介した言葉を使うなら「その人」ということになるのでしょう(三寳寺(臨済宗妙心寺派)住職福山宗徳氏の随筆)。 
  いずれにしても、読誦というのは実に気持ちがいいものです。読後は、とても清々しい気持ちになります。それが「私」を忘れている時間だからだと思います。お坊さんたちは、お経を読むとき、いつもこんなにいい気持ちになっているのかと思うと、嫉妬心が湧くほどです。
 以上、読誦の効用ということを心の健康法という観点から眺めるとこんな理屈になるのかと思います。  

  先の座談会で、友人たちが、この話をどのように受け止めてくれたか定かではありませんが、思いの丈を披瀝するところとなりました。「空(くう)」の体得、「自他一如」の感得ということ考えるとき、公案への挑戦もその有力な手だてであると思いますが、読誦もその一つであると言えるのではないでしょうか。
 読者の皆さんも、短い経文を暗記され、読誦する体験をされてみたらどうでしょうか。(〆)
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次回は、『願えば仏に』を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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2014
08.06

『願えば仏に』①/③

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 私のブログに対する読者からの反応がありました。「私の物差しを問う」(配信h25.11.29~12.11)に対する、次のようなものでした。
 「一切の物差しを持たないというのは、どんなことなのだろうか…。偏って狭い自分の物差しを捨てられない。その物差しで、興味深く読ませていただいた…」
 「私の物差し」を捨てるなどということは、理屈では理解できたとしても現実にはたいへん難しいことです。それは、あらゆる我欲、我執、我見を捨て去ることを意味します。そのことによって到達できる境地こそが「悟り」であり、それは「成仏(生きたまま仏になる)」ことと同意だと受け止めています。生身の人間である私たちにとって、それがどんなに困難なことか私もよく理解しているつもりです。読者からの反応はもっともなものだと思いました。
 ただ、「私の物差し」を捨てられない自分がいることに気づけることにも大きな意味があると思うのです。
 禅にあっては、「己事究明(こじきゅうめい)」が課題であるとされます。自我を捨て、自己、つまり「本来の自分」とは何かを見極めることです。禅というと、「坐禅」を思い起こされるかと思いますが、坐という字は、土の上に人が二人並んでいる姿を表しているとされます。一方は自我がむき出しになった状態の自分です。そして他の一方は、自己(本来の自分)です。坐禅がねらうところは、一つの土俵の上で、この二人の自分が互いにじっくりと見つめ合い、対話することを通して、揺れ動く心を鎮め、清らかで落ち着いた状態に戻すことだとされます。その先にあるのが「悟り」であり、「成仏(生きたまま仏になる)」ことなのでしょう。
 このように、自分の中に自我と自己(本来の自分)を意識することは、「己事究明」への第一歩になるのではないでしょうか。その意味では、「私の物差し」を捨てられない自分に気づけるということも、「悟り」あるいは、「成仏(生きたまま仏になる)」への最初のスタートにもなると思うのです。(以下②/③につづく)


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2014
08.10

『願えば仏に』②/③

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img_430460_6479815_7.jpg [東大寺 盧舎那仏(るしゃなぶつ) ]

 ところで、『華厳経(けごんきょう)』(華厳宗で拠り所にされている経典)のなかに、「初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)」という言葉があることを知りました。初めて仏道を歩もうと心に決めたとき、その瞬間に、仏になるだけの「正覚(しょうがく)」は得られている…、こんな意味があると聞きました。「正覚」というのは、「悟り」、さらには「成仏」とも同意です。 ただし、念のために言い添えますが、この場合の「正覚」とは、あくまでも生きたままで仏になることを意味します。
 『華厳経』によれば、仏とは宇宙に広がる極めて大きな仏であり、私たちからすれば無限の彼方にある存在です。(余談ですが、これが盧舎那仏で、東大寺の大仏は、この仏をイメージしたものです)。したがって、私たちが仏になるには、途方もない時間が必要になります。そのためには、何度も何度も生まれ変わらなければなりません。
 このように見ると、『華厳経』の教義は、内部矛盾を起こしているようにも思えてきます。仏教徒であれば、仏になることを目指して、仏道を一歩一歩進んでいくというのが基本姿勢であるはずです。しかし、このように仏が手の届かない存在であるとしたら、私たちが仏道を歩む理由はなくなります。いつまで経っても悟ることも、成仏することも叶わないのですから…。
 しかし、その一方で、『華厳経』は、私たちに素晴らしい救いの手を差し伸べてくれていることになるわけです。それが、「初発心時便成正覚」という教えです。私たちが仏になろうと思ったその瞬間に、正しい「悟り」を得ている、つまり「成仏」しているという驚くべき発想の転換を示しているのです。(以下③/③につづく)


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2014
08.14

『願えば仏に』③/③

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 この考え方のもとには、『華厳経』の根本思想である「一即多、多即一(いちそた たそくいち)」があるようです。これは、以前、本ブログでも紹介したように「一」と「多」は全く同じであるという考え方です。物質を構成する一つの「微細な塵」の中にも、「大宇宙」が含まれている、そして、一つの「微細な塵」も無限の「大宇宙」も同等・同値であるということです。
 微細な塵は、私たちの身体を構成する細胞と置き換えてよいかと思います。一つ一つの細胞が「大宇宙」も同値・同等だとするなら、それがおよそ60兆個集まって形成される私たちの身体も、当然「大宇宙」と同等・同値であることになります。人間の身体のことを喩えて「小宇宙」と呼ぶことがあるのは、こんなところにも理由があるのではないでしょうか。
 つまりは、宇宙に広がる仏も、人間の身体に宿る仏も、仏であるという点においては、全く同じであるということです。その意味では、私たちは、すでに仏であるということになります。(もちろん、それは私たちの中に仏になろうと発心することが前提ですが)。   
 また、「一即多、多即一」は、これとは別な解釈もできます。先に述べたのは空間的な見方によるものですが、時間的に見ることも可能です。「一」を「一瞬」に、「多」を「永遠」に置き換えてみるのです。すると「一瞬」と「永遠」は、一つであることになります。ということは、「一瞬」の中に「永遠」があるということにならないでしょうか。仏に向かって歩んでいこうと思った瞬間に、私たちは永遠なる仏になっているということです。
 屁理屈のようにも感じられるかも知れませんが、仏教ではことほど左様に、私たちに仏道を歩むことを誘(いざな)っているのだと思います。
 私の物差しを捨てること、それは何よりも自分中心(あるいは人間中心)の見方を改めることです。自分(あるいは人間)のことばかり考えていると、小さな世界のことしか見えなくなり、真実の世界から遠のいてしまうことにもなりかねません。
 しかし、私たちが「私の物差し」の偏りや狭さを少しでも自覚し、それを少しでも是正していこうとした瞬間、物差しは、「私の色」を薄めるのではないでしょうか。凡夫である私たちにできることは、自分の煩悩に気づき、それを恥じつつ、慎み深く生きてくこと…、せいぜいこれくらいしかないのかもしれません。
 それでも、私は、「初発心時便成正覚」というこの言葉を信じたいのです。  (〆)

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2014
08.18

「ギャラリー28」

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真を「ギャラリー28」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと

 今回の撮影地は、すべて阿知波池(豊田市)です。
 池に設けられた柵の水面への映り込みですが、風と光、撮影角度などによって多様にその表情を変化させます。水の「無相性」を実感させます。
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次回は、『尾根の木、谷の木』を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2014
08.22

「尾根の木 谷の木」①/③

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 気象情報の中で、台風のことが話題が上る時期になりました。毎年、台風によって、日本のどこかで災害が起こります。まったく理不尽なことだと思うのですが、自然の猛威には勝てません。ただただ、被害が少なく済むことを祈るしかないのが私たちです。
 ところで、少し前のことになりますが、マスコミの報道を通して、台風による被害について興味深い事実があることを知りました。
 山には、尾根と谷があることをご存じかと思います。尾根(峰つづき)に立つ木と、谷に立つ木では、形が違います。山の尾根のスギは、ずんぐりむっくりしています。それに対して谷の木は、まっすぐで、のっぽです。
 そこで、台風の話ですが、九州のある山のスギの植林地で、不思議なことがあったというのです。
 そのときは、風の強い台風でした。そのために、台風の通り道に近かった山では、そこに植えられていたたくさんの大切なスギの木が倒れたり、折れたりして、大きな被害が出ました。さて、この山では、どこに立っていた木が倒れたり、折れたりしたと思われるでしょうか?そして、どこに立っていた木が残ったと思われますか?
 実は、山の陰にあって、風が当たりにくかった谷のスギが、たくさん折れたり、倒れてしまったのでした。これはいったい、どうしてでしょう。
 谷のスギは、尾根から流れ落ちてきた水が十分にあります。その中には、栄養もたっぷり溶け込んでいます。だから、谷のスギの根は、栄養も水分も楽にとることができます。谷のスギの方が、恵まれているように思えます。しかし、そのために、根はあまり深くなりません。また広く張ることもありません。このため、谷のスギは背はまっすぐ高くなりますが、その割には、幹は細く、根も小さいのです。
  反対に、尾根のスギはどうでしょう。(以下、②/③へつづく)

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2014
08.26

「尾根の木 谷の木」②/③

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 (反対に、尾根のスギはどうでしょう。)山の尾根は、雨が降ってもすぐ下の方に流れ去ってしまいます。養分もすぐに流れ去ってしまいます。それに、山の尾根は、毎日、風も強く当たるので、土はとても乾いています。そのために尾根のスギは、水や養分をしっかりと吸うために、根を深く、広く伸ばさなければなりません。
 また、山の頂上は、強い風が吹くことが多いので、スギは倒れないように根をどんどん太くして張らなければなりません。それに、幸いなことに、山の尾根には太陽の光がよく当たるので、葉っぱでできたたくさんの栄養は、しっかり根や幹や枝に送られ、根や幹はどんどん強くなるというわけです。だから、台風に当たった尾根のスギは、風に当たってもびくともしなかったのです。
 成長過程を歩む子どもたちに伝えたいような内容の話ではあります。しかし、私たちが、この種の話に心打たれるのはなぜなのでしょう。
 以前、本ブログでも紹介したように、禅には、「無情説法」と称して、動物や植物の生き方、あるいは山や川(水)、月などの在り方から多くを学び取ろうとする考え方があります。「無情」とは、「心」をもたないものたちの総称です。そして、「心」とは、「私心(我欲)」と同義と受け止めてよいかと思います。「私心」から離れてあることを『悟り』と定義するなら、これらのものたちは、すでに悟っている、故に、彼らは、そのまま(の姿)で仏である、と見るのが禅の立場です。これらのものたちは、仏のごとく「私心(我欲)」がないから、迷うことも、間違うこともないというわけです。
 したがって、「無情説法」を聴くということは、これら無情のものたちが示す生き方、在り方の真実や真理から、私たち人間が積極的に学び取っていくことだと解釈できます。 (以下、③/③へつづく) 

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2014
08.30

「尾根の木 谷の木」③/③

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 そこで、このスギの話に戻りますが、私たちは、先のスギが指し示す事実からどのようなことを学び取るべきでしょうか。
 結論は、明白だろうと思います。困難や苦難の中でこそ、人間は鍛えられ、真に「生きる力」が養われるということです。それは、個人の問題にのみ当てはまることではないだろうと思います。
 東日本大震災を受け、エネルギー問題の論議が白熱するなか、政府は“原発ゼロ”を現実的な選択支ではないとして、再稼働へ向けた舵を切りつつあります。しかし、スギが指し示している教訓は、これとは明らかに異ります。
 私たちには「節電」という智恵があることを忘れてはならないと思うのです。「少欲知足」の実践と言ってもよいかと思います。「節電」は、見方を換えれば立派なエネルギーです。その証拠に、震災後、「節電」が叫ばれるようになると、それまで上昇の一途をたどっていた電力消費量は低下しました。「節電」は新たなエネルギーに転化したのです。私たちがこの事実に目覚め、危険な原発に頼ることなく、「節電」を継続的に実践していくことこそが、真に「生きる力」(「生き残る力」)になるのではないでしょうか。  
 無情のものたちは、「私心(我欲)」を持つことなく、四六時中、説法をしています。問題は、私たちがそれを受け止められる力量があるかどうかだと思うのです。
 無情のものたちの生き様、在り様から学ぶことは、私たちの心の中に巣くっている間は万物の霊長である」という驕りを正すことでもあるでしょう。そのためには、私たち自身が、できるだけ「私心(我欲)」から離れ、かれらとの距離を近づける努力をしなければならないのだと思います。それが、「無情説法」を聴き取るためのアンテナを高く、鋭くすることだろうと思うのです。
 最後に、金子みすヾの詩を一つ紹介したいと思います。私見ではありますが、金子みすヾこそは、「無情説法」を聴き取ることに非凡な才能を発揮した詩人の一人だと思います。読者は、この詩からどのような説法を聴き取
られるのでしょうか。   (〆)


 土と草
            金子みすゞ
  かあさん知らぬ 
  草の子を、  
  なん千万の草の子を、
  土はひとりで育てます

  草があおあおしげったら
    土はかくれてしまうのに 

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次回は、「『二つの円』から」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。



                     




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