2014
07.01

「Bad news is good news!」⑦/⑦

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 仏教には『慈悲』という実践徳目があります。相手と共に喜んだり、楽しんだりするのが『慈』であり、相手と共に悲しんだり、苦しんだりするのが『悲』であるとされます。『慈悲』の実践ができているとき、それは、無文老師の言う「お互い(人間)の心の本質」が働き出しているときなのだと思います。それこそは、「自他一如」つまり、「わたし」と「あなた」は一つのものであるという真理への揺るぎない確信に基づく心なのだと思います。

 この考え方に随えば、少なくとも、悪いニュースに接したとき、それに群がり、つつき回したり、面白がったりするようなことはできないはずです。また、ニュースの当事者(特に被害者)の想いに寄り添った受け止めができるはずです。逆に、それが良いニュースなら、心からそのことを喜び、当事者と同様の想いに浸れるはずです。やっかんだり、こき下ろしたりするような愚行に走ることはないと思います。
 相対世界の中にあって、絶対世界の真実を少しでも垣間見ること、いえそれが叶わないとしても、「自他一如」の世界に少しでも想いを致しているとき、それが『慈悲』の実践への第一歩に通じる考えるのですが、いかがでしょうか。
 世界は、ますます混迷を極め、先が見えなくなってきています。そんなの中で、私たちが“人としてできること”を模索するとき、禅の公案は大きなヒントを与えてくれるように思えるのです。
 読者の皆さんも、興味のある方は、ぜひ一度、公案に触れてみられてはいかがですか?(〆)

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次回は『心が動く』を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。


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2014
07.05

「心が動いている」①/③

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 私事で恐縮ですが、近くに住む孫(生後1年)が、毎日、我が家にやってきます。初孫ということもあり、妻も私も大歓迎なのですが、その世話となるとなかなかたいへんです。動きは、日々活発になり、片時も目を離すことができません。妻と交代しながら相手をするのですが、その間は、通常の生活は一変してしまいます。
 しかし、そうではあっても、御多分にもれず、孫は可愛いもので、相手をしているときは時間を忘れます。そんなときは、孫は、今おじいちゃん、おばあちゃん孝行をしてくれているんだなとも思います。
 そんなある日、孫が帰った後、妻の口からこんな言葉が聞かれました。
「Aちゃん(孫のこと)が帰ると、まるで嵐が去ったようだね」
 そのとき、とっさに次のような言葉が口を衝きました。
「Aちゃんが嵐ではなくて、あなた心の中に嵐があったのでは?」
 そのとき、妻は、妙に納得した様子でした。事実、孫が「嵐」であったわけではありません。孫の来訪を「嵐」のように受け止めた妻の心の中にこそ「嵐」があったのですから…。
 そのとき、いつも例に出す禅問答集「無門関(むもんかん)」の中にある「非風非幡(ひふうひばん)」の話を思い出しました。話の前半部分を紹介します。


 中国のあるお寺での出来事です。門前に説法があることを知らせる幡(旗)が立っていました。ところが、説法が始まると、パタパタとしきり音を立てて鳴り出しました。すると聴衆の中に二人の僧が議論を始めました。
 一人の僧が
「えらく幡がバタバタ動くじゃないか」
と言うと、
「幡が動いているものか。あれは風が動いているのだ」
と別の僧が言います。
「いや、動いているのは幡だ。風ではない」
「幡がひとりでに動くものか。動いているのは風だ」
 二人の僧は、幡だ風だといって、いっこうに解決しそうにありません。
(以下、②/③につづく)

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2014
07.09

「心が動いている」②/③

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 その様子を横で見ていた男がいました。男は、髪も髭も生え放題で、汚い身なりをしていました。男は、次のように言いました。
「あれは風が動くでもない。幡が動くのでもない。おまえさんたちの心が動いているのだ」
 その言葉を聞いた二人の僧は、思わず身震いをして黙ってしまったというのです。
 この話はまだ続きますが、この汚い身なりの男こそ、唐の時代、中国禅の本流を形成した慧能禅師(えのうぜんじ)です。禅師が出家する前の逸話として伝えられている話です。


 この話の主旨とはやや離れるかも知れませんが、「心が動く」という意味では、私たちの生活の中に、これに類する事例は多いのではないでしょうか。煩悩を象徴するものとして「貪瞋痴(とんじんち)」がありますが、このうち「瞋」、つまり「怒り」のほとんどは、これに該当するように思います。
 私たちは、「誰々から~と言われた」、「誰々に~された」などとしてよく腹を立てたりすることがあります。ところが、それらはすべて自分自身の「心の動き」によるものです。「怒り」そのものには実体はありません。一つの出来事であっても、心の持ち方次第で、地獄にもなれば極楽にもなります。
 先に例を出した我が家の話も、妻は孫の来訪に伴う非日常的な様子を「嵐」に喩えた訳ですが、孫の来訪に決して本物の「嵐」のような厄介さや疎ましさがあるわけでありません。受け止め方によっては、孫と触れ合える「至福の時」と捉えることもできます。
 では、それを「嵐」と受け止めたり、「至福の時」と受け止めたりしてしまう「心の動き」は、一体何に由来するのでしょう。単に孫がやってきただけのことなのに、なぜ私たちの心はかくも揺れ動き、偏ってしまうのでしょうか。(以下、③/③につづく)

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2014
07.13

「心が動いている」③/③

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 いつも言うように、私たちは、自分の好みや都合に合わせて、観たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりしながら、外界の世界を認識していきます。そのために、なかなか、真実の姿(実相)を認識することはできません。
 しかし、そうではあっても、私たちは、諸器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を頼らずして対象を認識することはできません。好むと好まざるとにかかわらず、狭く偏りながら、個々の認識を蓄積していくことになります。それを統合したものが「わたし」という概念です。そして、心はこの「わたし」によって操られることになります。
 すると厄介なことには、「わたし」に操られた心は、その好みや都合に合わせて、再び情報収集を始めます。そのため、「わたし」は、ますます狭く偏ったものになっていきます。そして、真実の姿(実相)は、ますます離れていきます。
 このように、一つのことを「わたし」の都合に合わせて、「嵐」と感じたり「至福の時」と感じたりする優柔不断な働きこそ、心の持つ特質なのだと思います。ころころと変わることから心(こころ)と呼ばれるようになったという説もあると言います。
 「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」
 いつも例に出す沢庵禅師(たくあんぜんじ)の道歌ですが、この歌もこのような心の特質を踏まえた禅師からの警句でしょう。私たちは、常に心の持つ危うさに思いを致す必要があるのだと思います。
 ここで、釈迦の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 
 物事はどうあるか。美しくあるか。醜くあるか。
 争い事の種としてあるか。大切な問題としてあるか。
 物事は自分を苦しめるか。あるいは甘美なものか。
 物事がどうあるか。
 それはひとえに自分の心によっている。
 心がそれを創っている。
(ダンマパダ)

 最後に、先の「非風非幡」の結末について簡単に紹介したいと思います。「無門関」の編者である無門禅師は、「非風非幡」の話の末尾で、「風が動くこともない。幡が動くこともない。心が動くこともない」と述べています。「心が動く」という話を総括して、「心は動かない」と結んでいるわけです。まさに禅問答の禅問答たる所以であるような話ですが、「動くことのない心」とは、一体何のことを言っているのでしょか。私たち凡人には踏み込むことのできない境地なのでしょう。(〆)

ダンマパダ

  原始仏典の一つで、釈迦の語録の形式を取った仏典  

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2014
07.17

「負けて得る勝利」①/②

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1672ec8d9dba8e67960ea2fbcdd15596.jpg [ジーコ元選手]

 サッカーワールドカップ・ブラジル大会が終了しました。今回の日本代表チームは、戦前の下馬評が高かっただけに、1勝もあげられずに予選敗退という結果には、落胆された読者も多かったと思います。
 そう言う私も、例外ではありません。日本国中の異様な盛り上がりに、改めて「たかがサッカー、されどサッカー」を実感するとともに、サッカーというスポーツの難しさ、奥深さを再認識するところとなりました。
 サッカーワールドカップと言えば、忘れることのできない逸話があります。『スポーツヒーロー物語』(監修 広瀬一郎)の中に収められている、元ブラジル代表のジーコ選手にまつわる話です。
 ご承知の読者が多いと思いますが、ジーコ選手は、ブラジル国内はもとより、ワールドカップなどで大活躍した、たいへん優秀な選手です。1991年には、来日し、鹿島アントラーズでプレーしました。また、2002年には、日本代表の監督に就任し、2006年には、日本代表チームをワールドカップ出場に導きました。次のような話です。


 1982年にスペインで行われたワールドカップの大会では、だれもがブラジルチームを優勝候補のナンバーワンにあげていました
 当時のブラジルチームには、ジーコ選手を中心にして、強い選手が揃っていて、今でも「サッカーの歴史の中で最高のチーム」と言われるほどの強いチームでした。
 ブラジルチームは予想どおりに勝ち上がり、準々決勝でイタリアと対戦することになりました。イタリアのチームも堅い守りで知られる強いチームでしたが、だれもがブラジルが勝つと信じていました。
 ところが、イタリアのチームには「殺し屋」というあだ名を持つジェンティーレという選手が、徹底的にジーコ選手をマークしました。反則すれすれの激しいタックルで何度もジーコ選手を倒し、ブラジルチームは思うようにプレーができませんでした。そして、試合が終わるとジーコ選手のユニフォームは、ビリビリになっていました。ジーコ選手に対する敵のタックルは、それほど激しいものだったのです。
 結局、ブラジルは2対3で負けてしまいました。
 その試合の後のことです。負けて落ち込んでいたブラジルの選手たちが、宿舎に帰ろうとしているイタリアチームのバスを見つけました。すると、何を思ったか、ジーコ選手が一人、イタリアチームのバスに乗り込みました。厳しくプレーを邪魔し続けたジェンティーレ選手と喧嘩が始まるのではないかと、両方のチームの選手たちの間に、一瞬、緊張が走りました。
以下、②/②につづく)

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2014
07.21

「負けて得る勝利」②/②

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 ところが意外にも、ジーコ選手はジェンティーレ選手に握手を求め、次のように言いました。
 「今日は、ありがとう。君たちのプレーは素晴らしかった。私たちはイタリアの優勝を祈っている。」
 そのとき、この様子を見ていた両チームの選手たちは、ジーコ選手の姿を、本当のスポーツマンにふさわしい姿だと思うのでした。

 『スポーツヒーロー物語』は、スポーツマンに必要とされる三つのものは何かをテーマとして編集されています。一つ目は「ルール」、二つ目は「審判の判定」、そして、その三つ目として挙げられたのが、ジーコ選手にまつわるこの逸話です。つまり、それは「相手(つまり敵)」であるということです。
 どんなスポーツにも、相手(敵)がいます(以下「相手」とします)。「相手」がいなくては、スポーツは成り立ちません。また、「相手」がいるから、自分も強くなれるのです。しかし、スポーツの試合だから、勝つこともあるし、負けることもあります。そして、負けたときは、とてもつらく、くやしいものです。
 ところが、敗戦した上に厳しいマークで思うようにプレーできなかったジーコ選手は、試合終了後、「相手」のところまで出向き、お礼と称賛の言葉を贈りました。その潔い態度に、まばゆさを覚えるのは私だけではないと思います。
 ゲームの結果を正面から受け入れたジーコ選手のふるまいに、敗者のイメージはありません。それどころか、勝者にも似たオーラさえ想起させ、尊崇の念も抱かせます。
 また、このときのジーコ選手が、決して「敗者ではなかった」ことは、その逸話が後世に語り継がれていることからも明らかだと思うのです。ゲームの勝敗のことを言っているのではありません。そのふるまいが、30年以上経った今でも、私たちの心を打ち、心から離れないということに大きな意味があると思うのです。 

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 飛躍するかも知れませんが、その意味では、今回のブラジル大会で日本人サポーターが見せた、試合終了後のゴミ拾いにも同様のことが言えるのかも知れません。
 今回のゴミ拾いは、日本人にしてみれば、当たり前の行為といってよいでしょう。ところが、世界中のメディアが、このことに称賛の眼差しを贈りました。英国の記者などは「どうやら、当の本人(日本人サポーター)たちは自分たちの行為が注目を浴びることについて、驚き、不思議に感じているようだ」とも伝えています。日本人として、たいへん誇るべきことだと思います。
 このこともゲームの結果とは関係ありません。しかし、それがジーコ選手の場合と同じように、後世に語り継がれていくとしたら、「サッカー日本代表は、試合には負けたが、日本人サポーターは勝利した」としてもよいのではないかとの思いが膨らむのですが…。(〆)

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次回は、「お経で健康になる」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。


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2014
07.25

「お経で健康になる」①/③

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 複数の友人と、定期的に座談会をしています。互いに簡単な近況報告した後、一つのテーマに沿って話し合いをしますが、決して堅苦しいものではありません。「私のやりがい」「私のこだわり」など、話しやすくなるよう、身近な問題をテーマにするようにしています。
 その日のテーマは、「私の健康法」でした。ふだんから不養生で、特別な健康法など実践していない私にとって、このテーマには正直なところ困りました。披瀝するような、めぼしい事柄が何もありません。
 そんなとき、思い出したのが、あるお寺で拝聴した法話でした。それは、「健康」の語源は、「健体康心」にあるというお話でした。体が健やかで、心が安らか(康らか)であることが、本当の健康であり、「貪瞋痴(とんじんち)」から抜けられない凡夫は、誰もが心を病んでいるという主旨の、まことに身につまされるお話でした。
 体の健康については理解できますが、心が健康であるというのはどのようなことなのでしょうか。
 これまでも繰り返し述べてきたように、私たち凡夫の心身を煩わせ、悩ませる迷いが煩悩ですが、その代表が「貪瞋痴(むさぼる心、いかる心、おろかな心)」です。それらは、「自分(自分だけ)が可愛い」という思いから生じる、狭く偏った心の働きです。凡夫が病んでいる心というのは、このような心のことだと思います。心が安らか(康らか)である状態とは、このような心の偏りから解放されることをいうのでしょう。
 そこで、私の健康法ですが、今回の座談会では、心の健康法に焦点を当てて話題提供しました。具体的には、朝の読誦(どくじゅ)です。読誦というのは、経文を空(そら)で、声を出して読むことです。読経(どきょう)も同意です。我が家の仏壇の前で、日課にしています。
 ただし、誤解のないように申し添えておきますが、読誦は、本来、生者(衆生)のために行うもの、死者のためのものではありません。経典というものは、もともと、釈迦が人々を救済するために語った言葉をまとめたものです。釈迦の死後も、さまざまな経典が編纂されましたが、それらは、すべて釈迦の言葉を基にしたものであり、すべて生者に向けられたメッセージです。
 余談ですが、その意味では、葬儀や法要などの折、僧侶は、本来、祭壇の仏像や仏画、位牌やではなくて、参列者に向けて読誦すべきなのだと思います。(以下、②/③につづく)
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2014
07.29

「お経で健康になる」②/③

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 私が、今、読誦できるのは、『般若心経』『白隠禅師坐禅和讃』『観音経(世尊偈)』『消災呪』『舎利礼文』『延命十句観音経』などです。
 これらを組み合わせ、『開経偈』で開始、途中で『回向文』、最後に『四弘誓願文』で終わります。およ10分ほどの時間になります。ただし『般若心経』は毎日、読誦しています。
 そこで、読誦と健康との関係です。
 読誦するときは、正座をして姿勢を正します。そして、息をいっぱいに吸って、下腹から声を出します。声を出すとき、吸った息は、細く、長く、ゆっくり出ていきます。息ができると下腹はぺちゃんこになります。そして、次の瞬間には、大量の息が、自然に体の中に入り、下腹は一気にふくらみます。いわゆる腹式呼吸です。その意味では、これも一つの健康法と言えるかも知れません。
 ただ、お経には、陀羅尼(呪文)としての役割があるという見方もあるようです。玄侑宗久氏(臨済宗の僧侶・作家)は、その著「現代語訳『般若心経』(ちくま新書)」で次のように述べています。要約して紹介します。

・『般若心経』全体が般若波羅蜜多という普遍的な真理を実現するための陀羅尼(呪文)である。
・断片的に入ったフレーズを記憶するのは「私」だが、全体をまるまるそのまま記憶する場合は、「私」が記憶するわけではない。
・いったん記憶された音の連なりは、スイッチを押すと、一切の思考を伴わずに自動的に出てくる。この記憶の在り方に「空」が関与している。
・陀羅尼を再生することで、自分の声の響きになりきれば、自然に「私」は消えてくれる。
・声の響きと一体になっているのは、「私」というより「からだ」「いのち」そのもの。それは宇宙という全体とつながっている。
・世尊(釈迦)が繰り返し説いたのも、自分で作った「私」という殻がいかに「苦」を生み出すものであるかということ。 
 
注般若波羅蜜多=悟りを開くために必要とされる大切な徳目(実践行)  
   
  玄侑氏の主張は、陀羅尼(呪文)が「私」という殻を解体する手段であるということにあります。氏の言う自分が作った「私」というのが、煩悩から抜けられず心を病んでいる、いわゆる凡夫の「私」を指していることは言うまでもありません。自己中心に狭く偏った心を持つ「私」に、「苦」はつきものです。この「私」を解体することが、心を安らか(康らか)にすることに通じるということでしょう。陀羅尼(呪文)というのは、そのための手段であるというわけです。(以下、②/③につづく)
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