2014
05.01

「リーダーの条件」①/⑥

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 今回は、子供に向けた仏教説話から、興味深い話を紹介したいと思います。


 ある森の中に、赤い顔をした5百匹の猿たちが、王様ざるにひきいられて住んでいました。ある日のこと、赤い顔の猿たちが、えさをもとめて、村はずれの畑のところまで出かけていくと、おいしそうなくだものが、たわわになった大きな木がありました。お腹を空かせていた猿たちは、われ先に、枝に飛びつきました。
 その時、「待て!」と、王様ざるの大きな声が響きました。
 「こんなにおいしそうなくだものなのに、人間たちがだれも食べた様子もないのはおかしい。わしが一つ食べてみるから、もし何ともなければ食べるがいい。」
 そう言うと、王様ざるは、くだものを一つ口に入れました。
と、どうしたことでしょう。急に苦しみ始め、間もなく血を吐いて死んでしまったのです。その木は、毒の実のなる木だったのです。
 赤い顔のさるたちは、泣きながら王様ざるを背中にかつぎ、森の方へ帰っていきました。

 それからしばらくたったある日のことです。川をはさんで向かい側に住んでいた青い顔をした5百匹のさるたちが、同じくだものの木の近くにやってきました。お腹を空かせていたさるたちは、われ先に、枝に飛びつきました。と、その時、「待て!」という、王様ざるの大きな声がしました。
 「このくだものの木は、村のどこからでも見えるのに、誰も食べた様子がない。これは一つ、食べるか食べないか、みんなで相談して決めることにしよう。」
 そこでさるたちは、さっそく相談を始めました。
 「こんなにいいにおいのするくだものが、毒であるはずがない。」
  「いやいや、このくだものはどうもあやしい。とりもついばんだ様子がない。」
 「いや、それは鳥が嫌いなだけで、毒とは限らない。」
 みんな口々に意見を言い始めました。ところがなかなか結論が出ません。そこで王様ざるが言いました。
 「では、みんなの意見の多い方で決めることにしよう
」(以下②/⑥につづく)

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2014
05.06

「リーダーの条件」②/⑥

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 そこで意見を集めると、「食べる」が3百匹、「食べない」が2百匹になりました。王様ざるは、にこやかな顔でみんなに言いました。
 「何事も、みんなの意見で決めるのが一番いい。わしは、今までも、みんながいいと思うことをやってきた。今度もそうすることにしよう。さあ、みんな食べるがいい。」
 すると猿たちは、先を争って木に登り、枝に飛びついて、くだものを食べ始めました。
 反対の意見だったさるたちも、つられて木に登りくだものを食べました。ところが、しばらくすると大変なことになりました。やがてさるたちは、みんな口から血をはいて死んでしまったのです。
 いや1匹だけ、残っていました。それは、青い顔の王様ざるでした。その顔はひきつり、青い顔がいっそう青くゆがんで、もうどうしても元に戻りそうにありませんでした。


 子ども向けに仕立てられてた物語ではありますが、考えさせられるところの多い話ではないでしょうか。リーダーとしての在り方が問われているのだと思います。
 さて、赤い顔の王様ざると青い顔の王様ざるの行動について、読者はどちらがリーダーとしてふさわしいと考えられるのでしょうか。(以下③/⑥につづく)

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2014
05.10

「リーダーの条件」③/⑥

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 どちらの王様ざるの行動にも、一長一短があります。赤い顔の王様ざる(以下、「赤い王様」とします)の評価できるところは、率先垂範にあるでしょう。くだものの試食を他の猿に任せるのではなく、自分自身で行っています。ところが、悲運にもその毒にあたり、一命を落としてしまいました。潔い態度という評価もできるかもしれません。しかし、「君子危うきに近寄らず」という諺もあるように、人の上に立つ者は、その行動を慎重にし、危険なところには近づくべきではないという考え方もあります。その意味では、赤い王様の行動は、リーダーとして軽率だったという批判もあるかと思います。
 一方、青い顔の王様ざる(以下、「青い王様」とします)はどうでしょう。食べるか、食べないかを、仲間の猿たちの意見を集めることで決めています。極めて民主的なやり方です。今風に解釈するなら、たいへん進んだ考えの持ち主です。ところが、その結果はどうだったかと言えば、仲間の猿たち全員を死なせることになってしまいました。仲間を守るというリーダーとしての最も大切な責任を果たせませんでした。
 以上のようなことから、どちらが優れたリーダーであるか、軽々に判断はできないように思います。
 ただ、そうは言っても、私は、赤い王様の行動が心から離れません。落命という運命を背負うことにはなりましたが、結果的には仲間のさるたちの命を守っています。(以下④/⑥につづく)

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2014
05.14

「リーダーの条件」④/⑥

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 ところで、この話が、なぜ仏教説話として伝えられているか疑問に思われる読者もあるかも知れません。確かに、仏教的な匂いがあまり感じられない話ではあります。そこで、以下は、いつものように独りよがりな思索です。
 仏教(とりわけ禅)では、「無心」を大切にします。心の無い状態です。どのような心を無くすのでしょうか。それは、自己愛に結びつく「わたし」のことではないでしょうか。誹(そし)られたり、煽(おだ)てられたり、悪口を言われたり、褒められたりといった様々な世評を、一切気にしないでいられる自分のこととも言えます。
その意味では、「無心」は「無私」です。いわば「ゼロ」の自分です。
 赤い王様のとった行動が、思慮に欠けていたという側面は否定できません。しかし、その行動が「無心」と「無私」に基づくものであったことは確かです。「このくだものには、ひょっとしたら毒が入っているかも知れない。これを食べたら、自分は死んでしまうかも知れない…。」もし、赤い王様が、こんなふうに考えたら、仲間の猿たちは、救われなかったでしょう。
 「わしが食べてみるから、何ともなければ食べるがいい…。」
 たいへん重い言葉です。この言葉の中に、自己愛に結びつく「わたし」の欠片もありません。あるのは、お腹を空かした仲間の猿たちのことだけです。赤い王様は、この時点で「わたし」を捨てています。その意味では「無私」の状態です。
 では、この言葉を発した主体者は、いったい誰なのでしょうか…? 以下、私見を述べたいと思います。(以下⑤/⑥につづく)

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2014
05.18

「リーダーの条件」⑤/⑥

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 それは、赤い王様の口を借りて発せられた大自然の創造者である「大いなる命」の声ではなかったか…。これが私の見解です。
 赤い王様は、くだものを口にした時点で、大自然の創造者である「大いなる命」に運命を託すことを決意したのではないでしょうか。「わたし」を「ゼロ」にすることで、大自然の法理(摂理)に随って生きる自分に目覚め、それに身を委ねたのだと思います。
 赤い王様にとって、くだものに毒があるかないかは問題ではなかったのです。毒があれば死に、毒がなければ食べ物にできる、ただそれだけのことです。赤い王様の最後の言葉は、大自然と一つになることで生み出された「無私なる言葉」と言うべきでしょう。
 仏教には、「自利利他(じりりた)」という考え方があります。自己の利益と他者の利益を同時に実現するという意味です。いつも例に出す、山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の言葉です。
 「自分のためにしたことはみな消えていく。自分の欲望を満足したということは、満足したときに何も無くなってしまう。しかし、人のためにしたことは、何度でも喜ばれ、会うたびにお礼を言われる。人のためにしたことは永久に残る。」
 老師の言葉に依れば、赤い顔の王様は、仲間を救うことで自分も救われたことになります。赤い顔のさるたちは、王様ざるの亡骸を泣きながら背中にかついで森へ帰りますが、そのことを暗示するシーンなのだと思います。
 赤い王様は、「自利利他」を実践したのです。それが、この仏教説話のテーマだと考えるのですが、いかがでしょうか。(以下⑥/⑥につづく)

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2014
05.22

「リーダーの条件」⑥/⑥

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 最後に飛躍するかも知れませんが、物語の青い王様にまつわる話から、ある歴史的な事実を思い出していました。第二次世界大戦前のドイツの国情に関わる事実です。あの悪名高きナチス党政権(党首A・ヒトラー)が、当時の民主憲法(ワイマール憲法)の下、当時のドイツ国民の圧倒的な支持を受けて誕生したということです。今さら説明するまでもないことですが、その後、ナチス党は暴走を始め、第二世界大戦の主因をつくる一方、国内ではユダヤ人の大量虐殺に手を染めていきました。
 ここで言いたいことは、「民主政治=多数決による政治」は、完全ではないということです。私たちは、そのことにもっと思いを寄せる必要があると思うのです。
 ただ、民主主義を原則とした社会にあっては、不完全なシステムではあっても、多数決を原理とした方法に頼らざるを得ません。それに代わるより望ましい政治システムを見い出せていないのですから…。
 政治を取り巻く課題はますます多様化し、複雑化しています。国の舵取り役を担う真のリーダーを見つけることは急務です。
 そのとき、大きな拠り所になるのは、やはり「無私」というキーワードではないでしょうか。「わたし(が)」「わたし(は)」「わたし(こそ)」等の意識は、すぐにしゃしゃり出て、人を思わぬ方向にミスリードします。
 リーダーを選ぶとき、私たちは、間違っても、容姿のかっこよさや、弁舌の巧みさ、押しの強さなどに目をくらまされてはならないでしょう。「無私」の思想の持ち、無文老師の言う「自利利他」を実践する人物をしっかりと見抜く力を磨かなければと思います。また、赤い王様のようなリーダーに育て上げることも必要だと思うのです。(〆) 

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2014
05.30

「沈黙の愛情」 ①/②

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 臨済禅・黄檗(おうばく)禅の公式サイトに掲載されていた随筆に目が止まりました。はじめに、まどみちお氏の詩「さくら」が紹介され、その後にコメントがありました。
 この詩はもとより、この詩に対して添えられていたコメントに共感するところがありましたので、やや季節外れではありますが、思うところをまとめてみました。
 コメントは、三寳寺(臨済宗妙心寺派)住職である福山宗徳氏によるものでした。抜粋したものを紹介します。



 「さくら」 
 さくらの つぼみが
 ふくらんできた
 と おもっているうちに
 もう まんかいに なっている
 きれいだなあ
 きれいだなあ
 と おもっているうちに
 もう ちりつくしてしまう
 まいねんの ことだけれど
 また おもう
 いちどでも いい
 ほめてあげられたらなあ….と
 さくらの ことばで
 さくらに そのまんかいを…

 この詩に触れると、桜そのものにも「いのち」が宿っているのだと気づかされます。(中略)私たちの周りには、いつも誰かがいてくれます。その人は、じっとこっちに向かって綺麗な花を満開に咲かせてくれています。その沈黙の愛情の中に包まれて、花満開の下で私たちは生かされています。だとしたら、その愛情に目を向けなければならない筈です。その人と心ひとつになって喜びも悲しみも分かち合っていけるなら、この場はいつでも楽しい花見の真っ只中のはずです。(以下略)



 私たちは、春が来て、さくらの花が咲くのは当たり前のことのように考えていますが、思えばたいへん不思議なことです。
 「年ごとにさくや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかを」
という有名な古歌がありますが、言うまでもなく木の中にその答えを見い出すことなどできません。木をいくら細かく刻んだところで、花の姿はありません。桜の花を咲かせる源は、まったく別のところにあります。
 桜の花を綺麗に咲かせてくれるのは、いったい誰なのでしょうか?
 筆者は、それを「その人」と表現しています。そして、花を咲かせるという営みを沈黙の愛情と喩えています。たいへん新鮮で、含蓄に富んだ捉え方だと思います。とりわけ、“沈黙の愛情”という喩え方は、「施して語らず」という仏教の基本精神に沿うものであり、魅力的でもあります。
 では、沈黙の愛情を提供する「その人」とは何でしょうか。前後の文脈から、それを単に人間だけに限定してはならないことは明らかです。
 コメントの中には「桜そのものにも『いのち』が宿っている」という言葉があります。しかし、言うまでもなく、それは桜だけに限ったことではありません。生きとし生けるもののすべてに「いのち」はあります。桜もその中の一つです。
(以下、②/②につづく)

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