2017
07.20

「光のない光」で見る!②/④

Category: 未分類
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 北原氏の話を聴いた後、私にも一つのアイデアが思い浮かびました。それは、暗い部屋の中でライトを点灯したときに起きる現象でした。
 暗い部屋の中で、強力な光を放つ懐中電灯のスイッチを入れた場合を思い浮かべてください。そこには、室内に浮遊する塵の姿が光に照射され見えるはずです.
当然のことながらスイッチを切れば塵は見えなくなります。
 通常、室内に浮遊している塵は、私たちの目には見えません。私たちが普段それを認識できるのは、雑巾や箒、掃除機などを使って掃除をしたときくらいでしょう。集められた塵の姿を目の当たりにし、ようやくそれが室内に浮遊していたことに気づくのだと思います。しかし、暗い部屋の中では、懐中電灯が強い光を放った途端、その光が及ぶ空間にだけ無数の塵が浮遊しているのが分かります。
 これを「生・死」の問題に当てはめて考えてみます。この場合に懐中電灯の光とは何でしょう?私は、それは人間の「知性」ではないかと思うのです。その「知性」という光に照らされ、塵が見える状態が「生」という概念ではないかと思うのです。つまり、「生」というのは、私たちの精神活動の産物であるということです。
 荒唐無稽な喩えであり、この先を読み進むことを躊躇される読者があるかも知れませんが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
 この喩えの中で大切なことは、次のことではないでしょうか。暗闇の中、私たちは懐中電灯の光を得て、塵の存在を知ることになります。ところが、懐中電灯の電池の能力には限界があります。電圧の低下に伴い、懐中電灯は、次第に光量を弱め、やがて光を失います。そして、その結果、照射されていた塵も見えなくなり、再び暗闇の世界となります。
 ただ、塵は見えなくなっても、なくなったわけではありません。光に照らされている間も、また照らされる前も後も、変わることなく室内に浮遊しています。密閉された室内を想定するなら、その中にある塵は増えもしなければ減りもしません。『般若心経』で詠まれる「不増不減」の状態です。
 つまり、塵は私たちが懐中電灯の光を照射したときにだけ、たまたま目に映るのであり、「生・死」が問題になるのは、その光があるときだけということです。したがって、その光がなければ、「生」も「死」もないことになります。(③/④につづく)

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2017
07.16

「光のない光」で見る!①/④

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 仏教における苦の分類としてよく知られるものに四苦八苦があります。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味します。その中の四苦は最も根本的な苦とされ、「生・老・病・死」がそれにあたります。他の四つ苦がありますが、紙面の関係で、ここでは割愛します。
 「生・老・病・死」はいずれも「思うようにならない」ものであり、その意味では仏教がこれらを根本苦としていることはよく理解できるものです。
 ただ、それらを並列に捉えられないのが私たちです。とりわけ「死」の問題は深刻です。「死」は、誰も避けることはできません。しかし、避けられないとは分かっていても、少しでも先延ばししたいというのが私たちの偽らざる願いではあり、「死」を恐れ、怯(おび)えつつも、普段それを忘れたことにしているというのが私たちの実態ではないでしょうか。ここに私たちの最大の「苦」があるのだと思います。私たちは、この人生の大問題にどのように対処したらよいのでしょうか?
 ところで先日、ラジオ放送(NHK「宗教の時間」)でたいへん興味深い話を聞くことができました。「生死一如を生きる」と題された話でした。死ねば終わりと考える人が多い現代ではありますが、「生と死は一つの世界である」と実感して生きた平井謙次氏(14歳のころリュウマチ熱に罹患し、重度の臓弁膜症を併発。3度の心臓手術を行なうも、生涯を心臓病とともに暮らす。30歳ごろより断食、坐禅、ヨガ、食養など東洋的な思想を学び、太陽保育園創設、「もとはこちら会」などを主宰)の人生観について、その愛弟子である北原ゆり氏が語ったものでした。
 その中で「虹の話」が心に残りました。要点は次のようなものでした。
 太陽光は、無色・透明であり、私たちはそれを見ることができない―。ところが、今そこにプリズムを置くことで、太陽光は、七色の虹となって私たちに見えるようになる―。この七色の虹が、私たちの肉体である―。これが、「生」を得るということである―。プリズムという「縁」をいただくことによって、私たちはこの世に現れてくる―。したがって、「縁」(プリズム)がなくなれば、私たちの肉体はなくなり、見えなくなる―。これが「死」である―。しかし、見えなくはなっても、無色・透明の太陽光は変わることなくそこに存在し続ける―。
 たいへん説得力のあるお話だと受け止めました。「人間は、どこからやって来て、どこに行くのか?」…。これは人類が抱える最大の問題ではありますが、それは、そのまま私たち一人一人が抱える「生・死」の問題でもあります。太陽光、プリズム、七色の虹という具体物をもとに、この問題の本質を見事に解き明かした北原氏のお話は、心に深く響くものでした。(以下、②/④へつづく)

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2017
07.08

ギャラリー57

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これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー57」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1・2は大府市(星名池)で、3~7は豊田市(西山公園)で撮影したものです

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 次回は「光のない光で照らす」掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
 



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2017
07.04

消えたキーホルダー ④/④

Category: 未分類

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人間の知覚能力は不完全なものです。また、身体能力にも限界があります。そして、それらは歳とともに衰えてもきます。加えて、記憶違いやそれに端を発した妄念・妄想、妄動は、誰にでも起こり得ることです。今回の私の所行がその実例です。いつも引用する道歌の一つに「極楽も地獄も己が身にありて 鬼も仏も心なりけり」がありますが、今回、私は痛いほどそのこと思い知らされるところとなりました。
 ただ、弁解がましく聞こえるかも知れませんが、私たちは案外こんなふうにして、日々「地獄」を味わったり「極楽」を味わったりしているのかも知れません。不適切な喩えかも知れませんが、キーホルダーは私を「地獄」に突き落としましたが、同時に「極楽」にも導いてくれたのです。
 私たちの心は、避けがたく「地獄」と「極楽」の間を経巡っています。この二つの心から離脱する術などありません。問題は心の揺れ幅をいかに小さく収めるかということではないでしょうか。
 その意味では、予期せぬことや思い通りにならないことに遭遇し、心が乱れたとしても、その心を冷静に眺められる“もう一つの心”があるなら、受け止め方はずいぶん違ってくるのかも知れません。
 山田無文老師の言葉の中に、次のようなものがありました。


 自己反省をしてみると自分の心の中に無量の衆生がいる(ことが分かってくる)。客観的な衆生ではなく、自分の心の中に無量の悩める衆生がいる。それを救わなければならない。…自分の心の中の衆生が本当に救われたら、外の衆生はどうせんでも救えるようになる。


 「心の中の衆生」というのは、自我(エゴ)、つまり「地獄」や「極楽」など六道輪廻する心のことだと思われます。常に「自己反省」を忘れず、「心の衆生」の動きを冷静に見つめられる“もう一つの心”を持つことの大切さを述べたものだと思います。


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 今回の不祥事は、すべて私の不徳の致すところでありました。読者は、くれぐれも私のような失敗はされませんように。(〆)

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2017
06.30

消えたキーホルダー ③/④

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 資源ゴミの処理を終え、運転席に戻ると様々な思いが頭を過ぎりました。
 まず反省したのは、私の散漫な注意力でした。先述したように、トランク内にも目を向けていました。さらに早朝には、トランクに資源ゴミを積み込んでいました。ところが、見つけられなかったのです。
 そのとき私は、まさに「見て見えず」の状態だったのです。「ここにあるはずはない」という思い込みが心に隙を与えていたのかも知れません。あるいは、あまり認めたくはないのですが、歳のせいもあるのかもしれません。ただ、それらは言い訳です。
 『般若心経』の経文の中に「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」という文言がありますが、これが「無眼(むげん)」ということではないかとも思いました。知覚機能の限界を説いたものと思いますが、まさにその現実を知らされる思いでした。私の目は「節穴」だったのです。
 二つ目に頭を過ぎったのは、妄念・妄想の怖さでした。キーホルダーの紛失に気づいたときから、私の脳裏には様々な妄念・妄想が湧き、それが新たな妄念・妄想を呼び、次第に膨らんでいきました。言うまでもなく、それらはすべて根拠のないものでした。自分の落ち度や至らなさを棚に上げ、他者を責める大人げない心の動きでした。また、給油カードの更新についても、GSスタッフの手間を考えれば、まことに早計な行動でした。妄念・妄想に縛られた、まさに妄動とも言えるものでした。

 今回のことは、私の“一人芝居”でした。まことに情けなくも恥ずかしい有り様で、穴があったら入りたいというのは、このような状況のことだろうと思いました。
 ただ、少し時間をおいて、考えたことがありました。(以下、④/④につづく)

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