2018
02.14

仏像を焼く ③/④

Category: 未分類

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  石それ自体に何の罪もなければご利益もありません。ところがそこに「仏」の絵を画いた瞬間から、私たちの意識や行動は変わってきます。その上に坐ったり寝転んだりすることなど、幼気なこどもでもなければ、とてもできないだろうと思います。信心深い仏教徒なら、合掌したり、礼拝したりするかも知れません。
 しかし、それらは私たちの妄念・妄想から生じる反応に過ぎません。石の上に画かれた「仏」に尊ぶべきものもなければ、畏れるべきものもありません。ただ私たちの心がそうさせているだけです。木で作られた仏像は単に木片に過ぎません。したがって、その木片に「仏」という妄念・妄想を抱くことなど、もっての外であるというわけです。その意味では、禅の思考は、極めて現実的です。

 しかし、私見ではありますが、この逸話は、単に妄念・妄想を否定するためのものではないと思うのです。焼かれた木像が仮にネコやネズミを模したものだったとしたら、何の問題もなかったのではないでしょうか。やはり、それが「仏」の姿をしていたことに問題があるのだろうと思います。
 仏教にあって、「仏」には特別な意味があります。それを特徴づける根本思想が「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうです。全ての生きとし生けるものには仏の性質あるという、仏教固有の世界観です。
 『般若心経』で読まれる「空即是色」も同様の世界観を述べたものだと思います。「空(目に見えないもの)」、つまりは「仏」が「色(目に見えるもの)」を造り出しているということです。言い換えるなら、森羅万象は、「仏」が現成した姿であり、それ以外のものはないということです。
 したがって、この論理に立つなら、この世の全てのものが「仏」という概念に内包されます。そこにはいかなる区別もなく、全ては一つです。したがって、そこでは「仏」という概念も言葉も不要になります。そうなれば「仏」だと言ってそれを特別扱いし、崇めたり、畏れたりすることは全く無意味なことになります。他方、カエルやミミズ、ハエやカなど、一般に下等とされるものたちを蔑むことも愚かなことになります。 
 それに、「仏」に実体はありません。見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることもできないのが「仏」です。妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが「仏」という概念とも言えます。禅宗にあっては、その真実を冷徹に見極めているのだと思います。(以下、④/④につづく)

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2018
02.10

仏像を焼く ②/④

Category: 未分類

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 これまでも紹介してきましたが、禅には「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(きぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、奧裏に坐す」という言葉が残されています。金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう…。木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう…。泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう…。本当の仏は、それぞれの心の中に坐っているのだから、その仏を己の中に見出すことが大切である…。このような意味になるようです。
 確かに、このような考え方に立てば、自分の外にわざわざ仏像を置き、それを崇拝するなど必要などないことになります。禅宗の寺院で特定の仏像が置かれることがないのは、このような仏像、あるいは「仏」そのものに対する特有の思想があるからだと思われます。その深意は、いったいどこにあるのでしょうか。
 丹霞禅師にまつわる逸話には次のような後日談があります。
  ある人が真覚大師に尋ねた。
「木仏を焼いたのは丹霞なのに、僧の方に何の罪があったのでしょう?」
 すると大師は次のように言った。
「僧には仏しか見えていなかった」
人は、再度、大師に尋ねた。
「では丹霞はどうだったのでしょう?」
大師は答えた。
「丹霞は、木を焚いたのだ」

 意味深長なやり取りではあり、軽々な解釈は慎まなければならないと思いますが、僧の罪が「仏しか見えていなかった」という件の中に鍵があるように思います。丹霞禅師にとって単なる「木」であったものを「仏」としたことにどのような罪があると言うのでしょうか。
 この論旨を明らかにするために、「『禅の語録』導読」では、『二入四行論(にゅうしぎょうろん)』にある一段が紹介されていました。次がその意訳です。
 法には大きさも姿かたちも価値の上下も無い。たとえば家の庭に大きな石があるとする。その上で寝ようが坐ろうが好き放題だ。驚きもしなければ、恐れもしない。
 ところがその石の上に仏の絵を描いたとする。すると心はそこに「仏」という観念を造り出して、たちまち罰があたるのが怖くなって、その上に坐れなくなってしまう。石はそのままなのに、汝の心のためにそうなってしまうのである。心とは何のようなものか?
 そう、すべては汝の心意識の筆が画き出し、それに対して自分で勝手に慌てたり、怖がったりしているだけのものである。

 ここで言いたいのは、次のようなことなのだと思います。(以下、③/④につづく)

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2018
02.06

仏像を焼く ①/④

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 日本仏教の各宗派にあっては、崇拝されるご本尊はほぼ決まっています。華厳宗や法相宗は盧舎那仏(るしゃなぶつ)、天台宗は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、真言宗は大日如来(だいにちにょらい)、浄土宗や浄土真宗は阿弥陀如来(あみだにょらい)といった具合です。もちろん例外はあります。
 ところが、不思議なことに禅宗にあっては特定の仏像がありません。釈迦如来が置かれる場合が最も多いのですが、それが聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)であったり、珍しいところでは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)や布袋和尚(ほていおしょう)であることもあります。これには禅宗が持つ特有の仏像観がその根底にあるようです。
 それを垣間見る上で参考となる面白い逸話が残されています。中国・唐時代に活躍した丹霞天然(たんかてんねん)禅師にまつわる「丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)」と呼ばれる話です。小川 隆著(駒澤大学教授)「『禅の語録』導読」に基づいて紹介したいと思います。
  寒い日があり、丹霞禅師が木でできた仏像を焚いて寒さをしのいでいた。それを見た同寺の僧の一人が、驚いて次のように問いただした。
「仏像を燃やしてどうされるつもりか?」
しかし、丹霞禅師は平然として次のように答えた。
「荼毘(だび)にふして、仏舎利(ぶっしゃり)をいただこうと思う」。
僧は、あきれ、責め立てるように言った。
「木でできた仏像など燃やして、仏舎利など見つかるわけはないではないか!」。
すると丹霞禅師は、次のように言い放った。
「それなら、仏像など単なる木ではないか。誰からも責められることはない」。
 それを聞いた僧が、前に進み出ようとすると、なんと眉毛がいっぺんに抜け落ちてしまった。

  最後に“眉毛がいっぺんに抜け落ちる”という奇妙なオチがありますが、これは、偽りの法を説く者は、法罰によって眉毛が落ちるという禅宗独自の信仰に基づく表現のようです。つまり、法の真実に背いているのは木仏を焼いた丹霞禅師ではなく、それを咎めた僧の方にあるということを強調して表現しているわけです。たいへん極端な話ではありますが、これが禅宗の仏像に対する基本的なスタンスのようです。(以下、②/④につづく)

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2018
02.02

清々しい顔 ③/③

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奈良の~1
 ところが、私たちがそんな思いに浸っているとき、私たちも自身も狩人と同じように「自己矛盾」に陥っていることに気づかされます。この物語の結末から私たちが味わっているのは、つかの間の安らぎであり、つかの間の癒しであるということだと思います。
 では、果たして、それを解く鍵はあるのでしょうか?あるとしたら、それはどのようなものなのでしょうか?

 前回の本ブログの中で、「『両手を合わせる』ことは、私たちの毎日が大きな矛盾を抱えていることへの自覚、そして多くの人やものたちに支えられていることへの感謝を姿として表すものである」と書きました。
 食事の前と後に、両手を合わせ、他者から命をいただいていることへの懺悔と感謝の気持ちを表す…。これも一つの鍵になり得るのではないか…。前回のブログの繰り返しになりますが、これが今の私の見解です。
 それにしても、この物語に描かれる親鹿の潔い態度には、心を打たれます。釈迦の前世を説話として綴った『本生譚(ほんじょうたん)』の中にある「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の話を思い出します。飢えた虎の親子を助けるために、薩捶王子(さったおうじ)が、断崖から身を投じ、その肉を食べさせるという話です(余談ですが、法隆寺の国宝「玉虫厨子(たまむしのずし)」には、その場面が描かれています。また、誤解のないように申し添えますが、釈迦は実在の人物です。「本生譚」はあくまでも説話として残されたものです)。
 親鹿と薩捶王子とが重なっ見えてきます。それは、まさに「仏の世界」の中の話です。
   そこで、以下は、いつものように独りよがりな解釈です。狩人は、約束を違えなかった親鹿の姿の中に「仏」を見たのではないか…。そして、そのとき、自らの中に眠っていた「仏」に気づかされたのではないか…。その意味で、親鹿を逃がすという行為は、「仏」の行為ではなかったか…。「清々しい顔」とは「仏」の顔ではなかったのか…。
 あまりに「仏」という言葉を使い過ぎました。反省しなければなりません。(〆)


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2018
01.29

清々しい顔 R ②/③

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 人間の命、動物の命、植物の命、魚の命、虫の命、そして微生物の命など、様々な生き物には命があります。命があるという点では、すべては平等です。それぞれが、懸命に生きています。
 チベット仏教の指導者、ダライ・ラマ14世が述べた「命あるものは、人間だけでなく、小さな虫けらに至るまで、苦しみから逃れ、幸せを得たいと望んでいる」という言葉に心を揺さぶられます。
 しかし、いつも言うように、人間は、他者から命をいただかなければ、生き長らえることはことはできません。物語の中で、狩人は、鹿の親子を逃がします。けれども、彼が生きていくための術は、鹿を含めた野生の動物たちを捕らえることにあります。それは、妻を養うため、また何より生まれたばかりの我が子を育てるため、避けては通れない宿命でもあります。
 狩人が物語の最後に見せた「清々しい顔」も、結局は、つかの間のことなのだと思います。時間は、その流れを止めません。狩人に課せられている現実も同じだと思います。
 この狩人がその後、どのように生きていったかは、知るよしもありません。けれども、そのことを生業にして生きていく限り、狩人は、次の日からまた、動物を追い、捕らえ続けることになるのだと思います。たいへん意地の悪い言い方だと思いますが、その意味では、このときの「清々しい顔」も、狩人が「自己矛盾」に陥っている姿と見ることも可能です。また、せっかく捕らえた獲物をみすみす逃するなど、馬鹿げているという批判もあるでしょう。
 しかし、その一方で、人間の命と鹿の命を一つのものと見た狩人に対して、尊崇の念も沸き上がってきます。狩人の心に宿ったと思われる心こそ「自他一如」の心、言葉を換えるなら「仏心」です。これが、この物語が伝えようとしている主要テーマだと思います。(以下、③/③につづく)


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