2017
09.18

本当の“幸せ”とは ②/③

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 私たちは常々夢や希望を持ち、目標を掲げ、計画を立てて進んでいくことを良しとする社会に生きています。それが私たちの生きるエネルギーになっています。
 しかし、その夢や希望も目標や計画も、いつも自分が思い通りに実現するとは限りません。私なども、これまでどれだけ「已むを得ず」の状況に陥り、その都度、「まあ、いいか…。」と自分を慰めてきたか分かりません。
 ところが荘子によればそんな受け身な態度の中にこそ「究極の主体性」があり、本当の“幸せ”があるというのです。その真意をどう理解したらよいのでしょう。このことについて玄侑氏から、たいへん興味深い指摘がありました。
 「究極の主体性」とは、どんな状況にあってもそれに「任せ切れる強さ」ではないかというのです。つまり、予測もしないことに遭遇したとしても、それを受け入れ、それに任せ切って生きていける心の強さだというのです。夢や希望、目標、計画が破綻しても、それを受け入れ、それに随いながら再出発する勇気ということもできるかと思います。いわゆる「現成受容(げんじょうじゅよう)の態度のことです。
 ただ、言うまでもなく、それは私たちにとって難題中の難題です。それまで拠りどころとし、大切に守ってきた自己の否定につながるからです。理屈では理解できたとしても、現実には極めて高いハードルがあります。
 しかし、だからこそ、荘子は「やむを得ず」の状況を受け入ることの殊勝さを強調的に説いたではないでしょうか。過去の自己を全否定するなどということは、よほど強力な主体性を発揮しなければできることではありません。荘子は、それこそが「究極の主体性」であると言いたいのだと思います。


                            
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 山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の高僧)の『維摩経』についての講義の中に次のような言葉がありました。
 幸福というものはこちらから求めるものでなく、向こうから与えられるものだ。西洋の諺に「求めて得られたものは快楽に過ぎず、求めずして得られたものが幸福である」とある。求めなくても、他から自然に与えられた幸福をいただくようにしなければならない。
 「こちらから幸福を求めない」ということは、「私心」を封印することを意味します。自分から求めるのではなく、他から自然に与えられた状況をそのままに受け入れることが本当の幸福であるということを述べたものだと思います。
 よくよく考えてみれば、運よく夢や希望を実現できたときはまだしも、実現できなかったときの失望や落胆はたいへん身に応えるものです。そして、そんなときには夢を抱いたことや希望に胸膨らませたことへの後悔の念さえ起こります。また、それが強い自責の念となって、自らを深刻な状況に追いやる場合さえあります。
 そもそも夢や希望、目標や計画などというのは、「私心」から生まれる「究極の自己都合」です。それが実現される保障などどこにもありません。すべての事柄は無限の関係性の中で、不可思議な「縁」を得て現成していきます。
 その意味では、どのような状況にあってもそれを「已むを得ない」ものとして受け入れ、それに任せ切って生きていける「究極の主体性」を発揮できたなら、どんなにか心安らかに、そして“幸せ”に生きていけるのではないかと思います。(以下、③/③に続く)
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2017
09.14

本当の“幸せ”とは ①/③

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p6G1yzN8vU3j3Q2XFrYLO7CwHDbuXlLS_20170916125723b6b.jpg   [玄侑宗久氏]
 以前、テレビを視聴(NHK Eテレ100分で名著「荘子」)を視聴していて、“幸せ”という言葉の語源について知る機会がありました。僧侶であり作家でもある玄侑宗久氏による荘子の思想についての解説の中でのことでした。
 それによると“幸せ”という言葉の起源は奈良時代にあり、当時は「為合わせ」と表記されていたとのことでした。そして、この場合の主語は「天」であると補足されました。つまり、「天」の「為すこと」に人間が「合わせる」ということが“幸せ”という言葉のもとになったということです。
 「天」が「為される」ことに人間は逆らうことができません。人間は「天」の「為さる」ことには「合わせ」ることしかないわけですから、それが最も自然で無理のない在り方であり、そこに“幸せ”があるということなのでしょう。
 ところが時代が下り、室町時代になると「為合わせ」は「仕合わせ」と表記されるようになったのだそうです。そして、それとともに主語は「天」から「人」に変化したとのことでした。
 主語が変われば、当然、その意味合いも変わります。この場合には、「人」が「人のすること」に「合わせる」ことになりますから、“幸せ”は、人間相互が相手の行いに合わせて生きていくことの中にあるということになります。
 このように見てくると、「為合わせ」も「仕合わせ」も、その語源は何とも主体性のない態度の中にあるように思えます。現代を生きる私たちにとって“幸せ”とは、自らの手でつかみ取るものというのが通常の理解ではないでしょうか。
 ところが玄侑氏からは、意外な話が聞かれました。氏によれば、これこそが荘子の考える「究極の主体性」であるというのです。いったいどのようなことなのでしょうか。
 このとき、荘子独自の思想として紹介されたのが、次の詩でした。

感じて而る後に応じ(かんじてしかるのちおうじ) 
迫られて而る後に動き(せまられてしかるのちにうごき)
已むを得ずして而る後に立ち(やむをえずしてしかるのちにたち)
知と故を去りて而る後に天の理に随う(ちとこをさりてしかるのちてんのりにしたがう)
(意訳)
 自分の考えで動いたり、変化したりするのではなく、周りに迫られて止むを得ずして行動し、小賢しい知恵や意志を捨てて、天道や自然の理に随っていくことが一番よい生き方である。

 見方によっては「究極の受け身」ですが、荘子はこれを「究極の主体性」とし、最高の行動原理であるとしたのです。(以下、②/③に続く)
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2017
09.06

ギャラリー59

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー59」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、いずれも自宅で撮影したものです。1~3は手すりに付着した水滴、4~7は、ペットボトルです。
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次回は、「本当の幸せとは」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2017
09.02

バッハの音楽は「悟り」から?④/④

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 最後に話が飛躍するのですが、もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。文部省唱歌「虫の声」をご存じでしょうか。


 あれ松虫が 鳴いている
 ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
 あれ鈴虫も 鳴き出した
 りんりん りんりん りいんりん
 秋の夜長を 鳴き通す
 ああおもしろい 虫のこえ

 きりきりきりきり こおろぎや
 がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
 あとから馬おい おいついて
 ちょんちょん ちょんちょん すいっちょん
 秋の夜長を 鳴き通す
 ああおもしろい 虫のこえ


 日本には古くから(平安時代)から、虫の声を愛でる風習があったようです。文部省唱歌「虫の声」も、そんな日本人の豊かな感性を子どもたちに伝えることを狙って作られたのではないかと想像します。
 虫の声が聞こえ始めると、否が応でも秋の訪れを感じさせます。どの虫の声(正しくは虫が発する音)も美しく純粋で愛らしいものです。私たちは、そのことに心惹かれるのだと思います。
 考えてみれば、虫たちに「私心」はありません。ただただ「無心」で鳴いています。そして、虫の声も人間にはコントロール不可能です。
 こんなふうに考えると、虫たちの声は「悟り」の声だとも思えてこないでしょうか。山田無文老師は、「花を(見ているときは)即自己と見ていく。鐘の音を(聞いているときは)即自己と聞いていく。…この天地と我が本来は一つであると見ていく体験が禅である」と述べています(「臨済録」から)。
 無文老師に倣うなら、私たちが虫の音を聞いているとき、自分が虫になって聞いていくところに「悟り」があるということです。いわゆる「自他一如」の境地です。
 余談ですが、欧米の人たちは虫の声を“雑音”として聞くと言います。虫の声を聞くときにも「私心」を遮断し、“もう一つの心”で聞かなければ、それは単なる“雑音”になってしまうということなのかも知れません。
 私たちが虫たちの「悟り」の声に耳を澄まし、その音色を愛でているとき、自我(エゴ)はその動きを止め、代わりに天地と一体となった“もう一つの心”が動き出しているのではないでしょうか。そして、そんなとき、私たちは案外、「悟り」の境地に近いところにいるのかも知れません。

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 以上、長々と勝手な意見を述べてきましたが、バッハの音楽を聴くとき、そして虫の声を聞くときの不思議な共通点について、読者はどのように思われるでしょうか。ご意見をお待ちしています。(〆)

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2017
08.29

バッハの音楽は「悟り」から?③/④

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 先ず思ったことは、篠崎氏の言う「演奏家がコントロールできない音楽」というのは、演奏家の喜怒哀楽を寄せ付けない音楽ではないかということです。それは、「私心」の介入を完全に遮断する音楽と言うこともできるかも知れません。つまり、バッハの音楽は、演奏家が一切の自我(エゴ)を排除し、「無心」にならないとよい演奏にならないということです。
 今更言うまでもないことですが「無心」というのは、心が全く無くなった状態を指すものではありません。一切の「私心」を遮断することで新たに現れる“もう一つの心”に充たされた状態、それが「無心」です。「私心」が無くなれば、自他の区別は無くなり、全ては一つになります。その意味では“もう一つの心”というのは、「万物と我は一体」「天地と我は同根」という実感ではないか思います。
 勝手な推量ですが、「私心」の介入の痕跡を留めないバッハの音楽というのは、自他を超越した、いわば異次元の音楽であるということなのかも知れません。篠崎氏は、それを「バッハの音楽を演奏するには自分が宇宙にならないと無理」と表現したのではないかと思うのです。
  突然、抹香臭い話になって恐縮ですが、盛永宗興老師(元花園大学の学長、元大珠院住職)は、釈迦の「悟り」に触れ、「悟りを開くということは、自分をゼロにしてしまって、すべてのものと一体になるということ、それが悟りを開くということだ」と述べています(「禅・空っぽに生きる」から)。この言葉に倣うなら、バッハは「悟り」を開いていたということになるのかも知れません。
 バッハは、17世紀から18世紀に活躍したドイツの音楽家ですが、敬虔なプロテスタントであったといいます。そして、数多くの宗教曲を残しました。キリスト教には「神の前では万人が平等」という根本教理があると聞きますが、彼の音楽の底流にも当然この思想があったと思います。
 直裁な言い方をするなら、作曲者が「悟り」を開いていたのだから、演奏者も「悟り」を開かなければいい演奏ができないということなのではないでしょうか。それが、篠崎氏の「バッハ(の音楽)は人前では弾きたくない」という言葉に集約されているのではないかと思うのです。
 
 今後も音楽は私にとって大切な人生を豊かにするツールであり続けると思います。これを機に、数は少ないのですが手元にあるバッハのCDをじっくり聴き味わってみようと思っているところです。そうすれば、こんな私でも、いつもの「禅」の教えとは別ルートで「悟り」に少しでも近づくことができるかも知れません。
(以下、④/④につづく)

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