2017
03.26

アドラーの心理学から②/⑤

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テキストには、この引用文の後に次のような記述がありました。
 人間が抱える問題は、自分のことだけを考えて生きているという点にある―。その自分にしか向けられない関心を他者に向けていく―。そして他者を競争すべき「敵」でなく、協力して生きる「仲間」と思えるようになれば、誰かの役に立ちたいと言う気持ちが生まれてくる―。こうした他者を「仲間」だと意識することを、アドラーは「共同体感覚」と呼んだ―。
 アドラー心理学によれば、対人関係の中で悩みを抱えている人にとって、他者は自らを陥れようとする怖い存在だとされます。他者と関わることで摩擦や軋轢が生まれるため、それを避けるために他者と関わりを断とうとする心理が働くというわけです。他者を「敵」と見なす心の動きは、ここから生じるというわけです。
 しかし、生きる喜びも幸せも、対人関係の中でしか得ることができません。そこで、他者に対する見方を転換する必要があります。具体的には、他者を「敵」でなく「仲間」と見ていくということですが、そのためにアドラーが発見、提唱したのが「共同体感覚」という理論です。
 アドラーは、「共同体感覚」について次のように述べています。
 われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない。(略)そこで人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。
 「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」ように努めること、これが「共同体感覚」の一つの定義であるとありました。他者を「仲間」と見る人は、他者に貢献でき、そのことの貢献感が自分への価値観を高めることになるという理屈です。そうすれば、対人関係の中に勇気をもって入って行くことができるというわけです。(以下、③/⑤につづく)

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2017
03.22

アドラーの心理学から①/⑤

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 19世紀後半にオーストラリアで活躍した著名な心理学者であるアルフレッド・アドラーの理論に触れる機会に恵まれました(NHK Eテレ「100分de名著」)。仏教、とりわけ禅をテーマにすることの多い本ブログにあって、心理学について取り上げることをいぶかしく感じる読者もあるかもしれません。心理学と言えば、人の心の働きや行動を研究する学問であり、実験的方法を取り入れ、実証的科学として成立してきたものです。
 しかし、仏教も心理学もその究明対象(あるいは研究対象)となるのは“心”です。心理学に詳しい友人との対話などから、アプローチの仕方にこそ差はあれ、どこかに接点はあるはずだとの思いはかねてからありました。それだけに誠にありがたい出会いでもありました。
 とは言っても、心理学についての知識は皆無にも等しい我が身です。今回はNHK出版によるテレビテキスト(岸見一郎著「人生の意味の心理学」)を頼りにアドラー心理学の一端を学ぶことになりました。以下、その中から知り得た事柄をもとに話を進めたいと思います。
 テキストによると、アドラーはフロイトユングと並んで心理学における「三大巨頭」の一人とされるとありました。第一次世界大戦が勃発すると精神科医として従軍しますが、傷ついた兵士の姿を目の当たりにして、“人間は闘わないために何をすべきか”を深く考えるようになり、そこで「共同体感覚」を発見したとありました。どうやら、この「共同体感覚」というのがアドラー心理学を特徴づける理論のようです。
 アドラーは、人間は常に今よりも優れた存在になりたいとい思いながら生きていると言い、これを「優越性の追求」と呼びました。そして、多くの人間がこの「優越性の追求」を「競争」と思い込み、他者を蹴落としてまでも上に立ち、自分の優位性を示そうとする傾向にあるとしました。そして、それを精神的な健康を損ねる最大の要因とし、健全な「優越性の追求」の重要性を説いています。
 アドラーの唱える健全な優越性とは、他者と比較して自分が優れていると感じるものではなく、理想の自分との比較の中で生まれるものです。つまり、自分の「マイナス」を「プラス」に転換するために努力を重ねることの中にあるということです。しかもここで特徴的なことは、「優越性の追求」が自分のためだけにするのではなく、他のすべての人が豊かで幸福になる仕方で前に進むことがイメージされているということです。
 アドラーの言葉です。
 真に人間の課題に直面し、それを克服できる唯一の人は、その優越性の追求において、他のすべての人を豊かにするという傾向をみせる人、他の人も利するような仕方で前進する人である
(以下、②/⑤につづく)
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2017
03.18

聞くこと少なき人は ③/③

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 解説(CD録音)を聞きながら、途中でその場から逃げ出したくなるような心境にもなりました。まことに身につまされるお話でした。
 高齢化と少子化はますます進み、社会保障にまつわる問題が深刻化することは目に見えています。それだけに、「社会や国家のお世話にならず、逆に役立つ生き方をする」と言う言葉は胸に刺さります。してもらうのを待つだけという在り方から、できることで世の中に役立っていくという逆転の発想です。今の私にはおよそ縁遠い在り方です。

 それにしても、友松氏が指摘している「多聞」によって得られる知恵とされる仏法の道理とは何のことでしょうか。そして、そのことを通して目指すべき「実老」とはどのようなことなのでしょうか。友松氏は、その詳細については述べていません。ただ、肉体の衰えに抗って生きていくことでないことだけは確かでしょう。
 浅学な私にその答を導き出す能力はとてもありませんが、身の程知らずな私見を述べさせていただくなら、それは「煩悩(貪・瞋・痴)」のもととなる私心をできるだけ排し、無心で生きることに努めることではないでしょうか。
 私たちは、ややもすると自分にとって心地よく、都合のよいことだけを受け入れ、そうでないものを遠ざけようとする心が働きます。そして、その傾向は年を重ねる毎に強くなるというのが私自身の実感であり、自戒でもあります。
 「実老」を生きるというのは、このような私たちの心の持つ性質をしっかりと理解し、それを正しく制御しながら年を重ねていくことではないでしょうか。友松氏の述べる「社会や国家に役立つ生き方」には遠く及びませんが、少しは「独立自尊の生き方」に近づけるのではないか思うのです。
 仏教が発しているメッセージを謙虚に学び続けること、そして、日々、柔らかく、広く、大きな心を持つ努力を続けていくこと、これが今私ができる「実老」を生きることではないかと思っているのです。(〆)

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2017
03.14

聞くこと少なき人は ②/③

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うし 
   ただ、そのような受け止め方をしていのたでは、良寛さんの真意を読み取ったことにならないのでしょう。
 良寛さんは、逆説的な言い方をしながら、今生きているこの一日一日を大切にすること、そして、今こうして無事に生きていられるありがたさを噛み締めるように、私たちに諭しているのではないでしょうか。
 しかし、老いを止めることはできません。老いることは誰も避けられません。問題は、それをどう受け止めていったらよいかだと思います。そして、それは今の私自身の大きな問題でもあります。
 ところで、『発句経152番』に次のようなものがあります。「発句経」というのは、原始仏典の一つですが、釈迦が実際に語った言葉を語録の形式で編纂したものです。釈迦の口から発せられた、いわば“生の言葉”と言えるものです。

 聞くこと少なき人は
 かの犂(すき)をひく牡牛のごとく 
 ただ老いるなり
 その肉は肥れど
 その知恵は増すことなからん

 この句について、友松圓諦(ともまつえんたい)氏(神田寺元主管)は、次のように解説(CD録音)しています。その要点を紹介します。


 年寄りの悪い点は、聞くことが嫌いで、聞くよりも知ったかぶりをして一方的に聞かせようとする癖がある―。これが「少聞(しょうもん)」だ―。研究心がなく、勉強しようとする気も少ない―。何を聞いても驚かなくなり、図々しくもなる―。
 「敬老の日」があるが、人間はただ長生きであってはいけない―。ただ老いるだけというのは空しい老い方だ―。釈迦はこれを「空老(くうろう)」と言っている―。「実老(じつろう)」でなくてはならない―。ほんとうに年をとることだ―。
 それには「多聞(たもん)」でなくてはならない―。知恵のある年寄りになることだ―。知恵とは、道理を知ることだ―。仏法の道理が分かっていないと、愚痴が多くなる。愚痴は知恵が病気をしたということだ―。知の“やまいだれ”が痴だ―。
 愚痴があるようでは年が泣く。年寄りになったら、年は知恵の年輪であると分別することが大切だ―。
 その昔は、食老とか棄老という風習があったという―。今では養老、敬老ということになっているが、「実老」でなくては敬老するに値しない―。敬ってもらうようになるには「多聞」によって「実老」になることだ―。
 社会や国家のお世話にならず、逆に役立つ生き方をすることだ―。独立自尊の生き方をすることだ―。釈迦からのメッセージを現代の私たちへの痛棒として噛みしめていくことだ―
。(以下、③/③につづく)

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2017
03.10

聞くこと少なき人は ①/③

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 私事ですが誕生日が近づいてきました。この年になると、当然のことながら嬉しいなどいう感覚はありません。また一つ歳を重ねてしまったのか…、余命がまた減ってしまったのか…、などマイナス思考にばかりが募ります。
 特に、日々、肉体的な衰えを実感します。頭の天辺から足のつま先まで、不調を数え挙げれば十指に余るほどで、いずれも若い頃には考えもしなかったような変化ではあります。きっと全身のあらゆる機能が相対的に落ちてきているということでしょう。寂しいことではあるのですが、身体は“本来自分のものではない”ということが分かる年になってきたのでしょう。
 ところで良寛さん(江戸時代末期の曹洞宗の禅僧)が面白い詩を残していること知りました。「無常」と題する詩です。その一部を紹介したいと思います。 
 無常 まことに迅速(じんそく) / 刹那(せつな)刹那に移る
 紅顔 とこしなえに保ちがたく  /  玄髪(げんぱつ)変じて糸となる
 弓を張る脊梁(せきりょう)の骨  /  波を畳(たた)む醜面の皮
 耳蝉(じぜん)竟夜(きょうや)鳴り  / 眼華(がんか)終日飛ぶ
 起居 ながく歎息(たんそく)し  /  依(いき)として杖に倚(よ)って之(ゆ)
 つねに 少壮(しょうそう)のたのしきを憶い
 また 今日のうれいを添う【中略】
 生を三界(さんがい)に受ける者  /  たれ人かここに至らざらん
 少壮 幾時ぞ  /  四大(しだい)日々に衰え               
 心身 夜々に疲る 【以下略】
  次がその意訳です。
 人間の無常はまことに速やかで、一刻一刻変わっていくものだ。少年時代の美しい顔も永久に保つわけにはいかず、黒い髪もたちまち白い糸のようになってしまう。
 背骨は弓のように曲がり、醜い顔の面もさらに波打ってくる。耳鳴りは一晩中するし、眼の中に一日中白いものが舞っている。
 立ったり座ったりするたびに長いため息をし、とぼとぼと杖にすがって歩く。
 いつも若い頃の楽しかったことを思い、そのために余計に今日という日を寂しいと思う。(中略)
  この世に生を受けた者は、例外なくこのような境に至るのだ。時は一時として止まらず、若いときは長続きしない。身体は日ごとに衰え、心身は夜ごとに疲れる。(以下略)
 良寛さんと言えば、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」という有名な辞世の句もあるように、人生の達観者として強いイメージがあります。“自分の良いところも悪いところも隠さずにすっかり見せたから、もうこの世に思い残すことはない…”、私たちはその潔さに心を惹かれるのだと思います。
 それだけに、老いることの変化を愚痴っぽく並び立てる良寛さんの態度に、違和感を抱く読者もあるかも知れません。世の「無常」に対する良寛さんからの恨み節のようにも映ります。(以下、②/③につづく)

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