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2019
04.18

健康はつながりから ③/③

Category: 未分類

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 釈迦が説いた真理の一つに「諸法無我(しょほうむが)」があります。すべての物や事は、無限の関係性の中にあり、それ自体に実体はないということを述べたものです。「私(我)」も、また「私(我)のもの」も、独立した姿で存在しているのではないという仏教固有の考え方です。しかし、このことを裏返すなら、「私」も「私のもの」も、他者との間に不可分の関係で結びついているからこそ存在できるということでもあります。
 このことは、番組の中で提示された、「人とのつながり」は健康を維持するための大切な要素であるという報告と符合するのではないでしょうか。わたしたちは、ふだん他者との間に、自分では気づかないほど広く、深い関係性を築いています。いえ、そうでなければ生きていくことなどできません。
 「共感」という感情は、仏の持つ「慈悲」という心の働きにも通じるものだと思います。他者の喜びを心底から自分の喜びとし、同時に他者の悲しみを心底から自分の悲しみにしていくという心の有り様です。
 池谷氏の言うように、それが生物進化の過程で、魚類や両生類などの時代から作り上げられてきたものであるとするなら、人類の心の内にも例外なく「慈悲の心」が組み込まれているはずです。言うまでもなく、38億年の生命史上、人類は最も遅れて誕生してきた生物です。
 ご承知のとおり、仏教は性善説の立場をとります。その意味では、今回の番組から知り得た事実や池谷氏の研究などは、仏教の説く性善説の明確な根拠になるのではないかとも思うのですが、読者は、どのように考えられるでしょうか。

 いずれにしても、「人とのつながり」を大切にし、“人に親切にする”という行動を続けることが、健康維持に重要な働きをするという事実には驚かされました。まさに“ガッテン!”でした。
 番組の中では、〈道でおばあさんの荷物を持ってあげた〉、〈お茶を飲みに行ってコーヒーをおごってあげた〉、〈焼いたクッキーを友だちにプレゼントした〉など、“人に親切にする”行動について卑近な例が示されていました。
 それを見ながら、私も「一日一善」に留まらず、できれば「一日三善」に心がけ、寝たきり予防に努めたいと思ったことでした。 (〆)

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2019
04.14

健康はつながりから ②/③

Category: 未分類

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 ところで、一般に人が健康を保つためには、運動することが有効だとされます。そのことに誤りはありません。番組の中でもそのことは強調されました。
 しかし、興味深かったのは、それに加えもう一つ有効な方法があるという報告でした。それが「人とのつながり」を持つということでした。つまり、私たちの遺伝子は、人とつながりを持ち、“人に親切にする”ことが喜びとなり、身体にもよい影響を及ぼすようにプログラミングされているというのです。調査をしてみると、運動も「人とのつながり」もない人は、両方ある人に比べて、寝たきりになる危険度が16倍にもなるというのですから驚きです。

 そこで思い出したのは、購読している書籍(月刊MOKU vol.234)の中にあった池谷裕二氏(東京大学大学院准教授)の話でした。神経科学や薬理学を専門とし、海馬や大脳皮質の研究者です。その一部を要約して紹介します。


 淋しさや孤独を感じるとき、脳では「痛み」を感じる部位が反応する。前頭葉にあるACC(前帯状皮質)という領域である…。
 ACCという領域は、(心が痛む、胸が痛むなど)孤独感に反応する他、「共感」に対しても反応する。相手が痛い目に遭っていたり、辛そうにしているとき、自分も「痛そうだな」「辛そうだな」と感じてあげられるのが「共感」だが、このとき脳では、「痛み」の神経が働いている。つまり、相手と同じ立場に立って、痛みを本当に分かち合っている…。
 この神経は、生物の進化の過程でも、かなり初期の頃の動物、例えば魚類や両生類などの時代から、長い時間をかけて精巧に作り上げてきたものだと考えられる
。(動物たちは)進化の過程で、もともとあった神経系を使い回している…。


 「痛み」や「共感」という反応は、生物進化の過程で作り上げられてきたという指摘が新鮮です。池谷氏の言う「共感」という心の動きは、「人とのつながり」、つまり他者との間に結ばれている広く、深い関係性の中から生まれてくるものです。それはさまざまな時と場で“人に親切にする”という行為となって現れるものであり、番組のテーマにも重なります。 (以下、③/③につづく)   

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2019
04.10

健康はつながりから ①/③

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 テレビ番組(NHK「ガッテン」!)を視聴していて、驚かされたことがありました。「家族を守る、寝たきりを予防」と題した番組でした。
 冒頭で、たいへん興味深い実験結果が示されました。それは、“人に親切にする”という行為を1日に3回すると、私たちの遺伝子に寝たきり予防に効果的な変化が現れるというものでした。次のような内容でした。


 ①免疫細胞が病原菌と闘う際に、炎症を起こす物質が生成され「炎症モード」となる
 ②その状態が続くと筋繊維に萎縮が起こり、全身が衰えて、寝たきりの大きな原因となる
 ③ところが、“人に親切にする”という行為を続けると、炎症物質を出させる遺伝子の
  働きが鈍くなり、身体によい影響がもたらされる
 ④親切がもたらすこの効用は、自分の家族に限定されるものでなく、あらゆる人に
  対する親切についても当てはまる
 ⑤これらは類進化のプロセスの中に培われてきた本源的な働きである


 さらに、人類の進化がもたらした遺伝子への影響については、研究者から次のような解説がありました。要約して紹介します(スティーブ・コール教授[カリフォルニア大学]の話)。
 その昔、人類が狩猟生活をしていたころ、大きな獲物を仕留めるためには集団を作って行動する必要がありました。狩猟の成功には、群れを作り、互いに助け合う必要があります。仲間との協調性を失い、単独で行動するようなことになれば、生命は即、危険にさらされることになります。
 そんなときには、身体が自然に緊急事態を察知し「炎症モード」に入ってしまいます。したがって、そのような状態に陥ることがないよう、人類の遺伝子には“人に親切にする”という働きが組み込まれたというのです。つまり、“人に親切にする”ということは、より多くの人と助け合いのグループを作り「炎症モード」を回避するための有効な手段であるというわけです。(以下、②/③につづく)

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2019
04.07

朽ちた仁王像 ③/③

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 「拝む」には「己我無(おがむ)」、つまり、己(おのれ)という我(が)を無(む)にして臨むという意味があるという話をきいたことがあります。とりわけ浄土門(浄土真宗など)では、自我を捨て、阿弥陀如来に全てをお任せすることで仏と一体になるという意味が込められていると理解しています。
 自己中心的な考え方を脱し、我欲や我執を無くする(あるいは薄める)ことを拝む(手を合わせる)ことの意味とするなら、その時点で私たちは、不完全ながらも仏に近づいていることになるのではないでしょうか。

 以前、本ブログの中で、「私」という漢字の「ノ木偏(のぎへん)」から三画を取り除くと「仏」という漢字に変わるという話題に触れたことがありました。つまり「禾」の二画目、四画目、五画目を取り除けば、「人偏(にんべん)」になり、全体としては「仏」になります。その際、取り除く三画は、「貪・瞋・痴」のいわゆる三毒に擬(なぞら)えています。文字遊びのようで、同調できない向きもあるかもしれませんが、「仏」と「私」の関係について考えるとき、あながち外れてはいないように思うのです。 
 このように、仏に手を合わせるという行為は、三毒に蝕まれ、いつもそれにミスリードされている「私」を、一瞬のうちに「仏」に変える行為でもあるということです。その意味では、浄土門における阿弥陀如来の存在もいわば方便であり、信者がそれに向けて手を合わせることも、結局は、自らが仏になるためのプロセスであるという理窟になります。このように考えれば、『法華経』の根本思想と齟齬はないことになるのではないでしょうか。

 私もいつか時間を見つけて現地を訪問し、ぜひこの仁王像を拝観したいと思っています。そして、仁王像の前に立ったときには、静かに手を合わせてみたいと思います。(〆)
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2019
04.03

朽ちた仁王像 ②/③

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 ところが正直なところ、その姿から仁王像を思い浮かべることは困難でした。仁王像であるという説明がなければ、おそらくは、それとは気づけないのではないかと感じました。
 辛うじて人の立ち姿であることは見て取れるのですが、全体に消耗と劣化が著しく、表情などは全く窺い知ることはできません。仁王像を特徴づける両腕も欠落しています。悪し様に言うなら、立ち枯れた末、風化が進んだ太い柱のようにも見えました。これも、長く川底に埋められていた影響だろうと想像しました。
 そんな仁王像が、今も寺院の一画に大切に安置されているというわけですから、事情を知らない訪問者なら、きっと首を傾げることでしょう。
 しかし、そこには重要な意味があるのだと思います。単に稀代の名工が手掛けたと伝わるからだけではないはずです。以下は、私見です。
 今に見る仁王像の安置は、その昔、これを必死に守ろうとした人々と、そこに込められた彼らの想いに対する深い敬意の現れと見ることができるのではないでしょうか。時代を超えて、この地に生きる人々の心はだということです。だとすれば、たいへん尊いことだと思います。
 その由来を知ってこの寺を訪れる人なら、この仁王像に手を合わせる人もあるのではないでしょうか(余談ですが、像の両脇には、奉納されたと思われる千羽鶴が写っていました)。

 その時、ある想いが頭を過ぎりました。それは、仁王像(広義には仏)に手を合わせるとき、その手を合わせている人自身が仏になっているのではないかというものでした。(以下、③/③へつづく)

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