2018
04.19

鈴木大拙の思想 ④/④

Category: 未分類

img_20170624102812e08.jpg
 ところで、先に神というのは、妄念・妄想の産物であるといいましたが、仏もこれと同じではないかと思われる読者があるかも知れません。そして「神がいない」のであれば「仏もいない」のではないかと詰問したくなるかも知れません。そこで、以下、私見を述べたいと思います。
 仏はいない。しかし、仏は充ち満ちている。これがその答えです。仏教特有の「空」と考え方です。腑に落ちないという声が聞こえてきそうですが、残念ながら、それ以外に言いようがありません。「有るようで無い」「無いようで有る」、これが仏です。
 旧約聖書における神と仏教における仏には、もう一つ大きな違いがあります。神と人間の間にあるのは上下関係(縦のつながり)ですが、仏と人間(正確には生きとし生ける物)との間にあるのは、あくまでも水平関係(横のつながり)です。つまり、すべての人間は絶対的な平等関係にあり、一人一人が自由で、完璧な存在であるということです。換言すればすべての人間が仏である」ということです。互いを肯定し合い、尊重し合っていこうとする高邁な精神は、ここから生まれてくるのだと思います。
 番組の最後の場面で、岡村氏から次のような言葉がありました。大拙の思想を端的に表すものとして心に残りました。要約して紹介します。


 大拙にとっては、宗教も宗派もない。人間は単に、「二本足で立っているもの」ということであり、大拙は、そのような人間の本来の働きを実感として持っていたのだと思う。(中略)私たちは、二つの次元が同時に動いている。その一つが「生きている」ということであり、その一つが「生かされている」ということである。そのことを忘れてはならないと思う。


 以上、テレビの視聴を通して印象に残った三つの場面について綴ってきましたが、最後に、昭和37年(大拙92歳)、NHKのテレビインタビューに出演したときの映像に残る大拙自身の言葉を紹介して結びにしたいと思います。「西洋人が禅に感じる魅力とは何だと思うか?」という問いに対する大拙の答えです。 


 今は何にでも束縛されてしまう。時間に束縛され、組織に束縛され、いろいろな点で束縛され、本当の自由の働きができない。人間は元来自由がなかったらもう人間ではないから、人間に帰ろうという動きがどこからか出てくると思う。それに対して、禅は最も適切な訓練であり、修行だということに気づいたのだろうと思う。
 東洋の自由の意味は、自ずからなる、自ずからに由るということ、ものに束縛が何もない、そのものになって、本体になって働くというのが自由だ。西洋のリバティ[liberty]やフリーダム[freedom]には、そういう意味はない。


 自由についての東洋と西洋の受け止め方の相違が、そのまま仏教(とりわけ禅)とキリスト教の教義の違いに反映しているという、たいへん興味深い指摘だと思います。
(〆)    
65-2.jpg 
  ※クリックすると拡大して見られます。                                              

次回は「ゼロにならない心 R」を掲載します。ぜひご訪問ください。 


スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2018
04.15

鈴木大拙の思想 ③/④

Category: 未分類
160.jpg
 妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが神という概念であるとも言えます。
  「その前に神様は、いったいどこで何をしておられたのか?」というのは、大拙のいわばブラックユーモアでしょう。仏教(とりわけ禅)には、神(この場合は創造主)などという絶対者は存在しません。仮に存在していたとしても、神でさえ「諸行無常」「諸法無我」という宇宙の摂理の下にあり、時間や空間の影響から逃れることができないということです。
 では、アダムとイブの話はどうでしょうか。「リンゴをもう一度かじればいい」という大拙の深意はどこにあるのでしょうか。
 大拙の言うように、もしアダムとイブがリンゴをもう一度かじったとしたら、果たして神はどうしたでしょうか?自らが造り出した人間がその命令を無視するなど、全く想定外の行為のはずです。乱暴な想像ではありますが、神はパニックを起こし、恐らくは何もできなかったのではないでしょうか。
 ここで大拙の言いたかったことは、何だったのでしょう?
 それは、もう一度リンゴをかじり、そのおいしさを十分に味わえばいいということではないでしょうか。
 仏教(とりわけ禅)では、人間は、常に自(おの)ずからに由(よ)という在り方が尊重されます。外界の何ものからも、騙されたり束縛されたりすることのない在り方です。これが「自由」についての仏教の考え方です。アダムとイブは、思う存分にリンゴを味わい、今ここに楽園があることをしっかりと噛み締めればいいということです。「昨日」は記憶の世界であり、「明日」は想像の世界です。常にあるのは「今」です。そして「今」の連続です。大切にすべきは「即今只今(そっこんただいま)」であるということなのだと思います。
 この二つの話は、つまるところ「神はいない」ということを言っているのではないでしょうか。大拙は、「禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す」と述べています。想像ではありますが、自己の存在の本性を見抜いた先には、神などという妄念・妄想は跡形もなく消滅するということなのでしょう。大拙の思想の核心は、まさにこの二つの話の中に示されているように思われます。(以下、④/④につづく)
65-1.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。

Comment:0  Trackback:0
2018
04.11

鈴木大拙の思想 ②/④

Category: 未分類
2008101619143851_2.jpg

 二つ目の場面です。
 大拙に「手を出しなさい」と言われた。手を出すと「きれいな手じゃないか。仏の手じゃないか」と言われた。そのときは「何で私の手が仏の手なのか?」と思ったが、その手が自由に動くことを指摘しながら、「これは、あなたが作った手か?あなたの親が作った手か?」と聞かれて、言葉が詰まった。
 手を出すように言われ、いきなり「これは誰の手ですか?」と問われたら、私たちは何の疑いもなく「わたしの手です」と答えると思います。それを「仏の手」と言われたらどうでしょう。岡村氏の戸惑いはよく理解できます。
 しかし、「あなたの手は誰がつくったか?」と問われたらどう答えるでしょうか。「わたしがつくった」と答える人はいないだろうと思います。また、「父と母がつくった」と答える人もいないでしょう。では、誰だと言ったらよいのでしょうか?
 先の話にも重なりますが、それは、宇宙に働く力(存在発現言力)としか言いようがないものです。英語ではSomething greatですが、仏教では、それを「仏(仏性)」「法(法性)」等と呼んでいます。「」あるいは「」という言い方もあります。
 したがって、「誰の手か?」と問われたとき、「仏の手だ」と答えても何の齟齬もありません。いえ、このように考えを進めれば、私たちの体そのものが「仏の体」ということになります。つまり、私たちは「仏の分身」であるということです。大拙は、そのことを伝えようとしたのだと思います。

 三つ目の場面です。
 キリスト教では天地創造の神が「光あれと言ったら夜が明けた」とされるが、大拙は次のように言った。「その前に神様はいったい何をしておられたのか?どこにおられて何をされていたのか?」と。
 また、楽園を追放されたアダムとイブについて問われると、「リンゴをもう一度かじればいい」と答えた。これは、本来を確認するということだ。
 仏教(禅)では、固定したものとして捉えない。ストーリーとして考えない。自由ということのもとがそこにあると言いたかったのだと思う。

 言うまでもなく旧約聖書にある「天地創造」の話は人間がつくったものです。当然、アダムとイブの話も創作です。
 一方、仏教では、あらゆるものごとは刻々と変化し続け、何ものにも依存しないで存在しているものはないと説きます。いわゆる「諸行無常」「諸法無我」です。そして、存在には実体はないとして、あらゆる妄念・妄想を否定します。(以下、③/④につづく)

64-8落合池 
※クリックすると拡大して見られます。
Comment:0  Trackback:0
2018
04.07

鈴木大拙の思想 ①./④

Category: 未分類
0701.jpg

 鈴木大拙(すずきだいせつ)[明治3年(1870)~昭和41年(1966)]の思想に触れる機会がありました。「大拙先生とわたし」と題したNHK Eテレの番組“こころの時代”の視聴を通してでした。番組は、生前の鈴木大拙と親交の深かった岡本美穂子(おかもとみほこ)氏(金沢・鈴木大拙記念館名誉館長)が、ディレクターのインタビューに答える形で進行されました。
 鈴木大拙(以下、大拙とします)は、鎌倉・円覚寺で釈宗演(しゃくそうえん)のもとで禅を学び、禅の思想や東洋の思想を欧米に広めた仏教学者です。戦後はアメリカに滞在し、ハーバード大学やニューヨーク大学などで仏教や禅に関する講義を行った他、著作の多くを英語で執筆し、禅の思想を世界に普及する基盤づくりをしました。現在の禅(ZEN)の国際化は大拙の存在を抜きにしてあり得ないとされます。
 一方、岡本氏は、昭和27年(1952)にアメリカで大拙と出会い、昭和41年(1966年)に大拙が死去するまで、約15年にわたり秘書役として生活しました。最晩年の大拙を知る人物としてよく知られる女性です。
 番組では、アメリカ時代の大拙に関わるエピソードや、岡本氏自身が大拙と交わした対話の様子などが具体的に紹介され、大拙の人となりやその思想の一端を垣間見る上で、たいへん興味深いものでした。
 その中から、私が心に残った三つの場面について、思うところを述べてみたいと思います。
 先ず、一つ目の場面です。
 あるとき、目の前の机を叩いて、「どこで聞いた?」と尋ねられた。耳で聞いたなど答えるのは余りにも平凡なので、「全身です」と答えた。すると、「そんなけちくさいものじゃないぞ」と言われた。その後に、大拙は「全宇宙が聞いたから、あなたが聞いたのだ」と続けた。
  不思議なやり取りではあります。しかし、これが仏教(とりわけ禅)の世界観です。138億年前から続く宇宙の営みの延長線上に私たちは存在しています。私たちの心の働きも体の働きも宇宙に働く力から離れて存在しません。眼・耳・鼻・舌など、感覚器官の働きの全ては、宇宙に直結しています。私たちの「聞く」という行為も、単独で機能しているのではなく、宇宙を構成し、進化させているエネルギーを得てあるわけですから、「宇宙が聞いた」と言っても過言ではないということです。その意味では、私たちが歩いたり、止まったり、坐ったり、横になったりする行為、つまり「行・住・坐・臥」も宇宙の行為であると言えます。(以下、②/④につづく)

64-7.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。

Comment:0  Trackback:0
2018
03.30

ぎゃらりー64

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー64」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~5が豊田市の「阿知波池」、6~7が岡崎市の「岡崎市美術博物館」、8が春日井市の「落合公園」で撮影したものです。

1
64-1.jpg
2
 64-4.jpg
3
64-5.jpg 
4
64-2.jpg 
5
64-3.jpg 
6
64-6.jpg 
7
64-7.jpg 
8
64-8落合池 

次回は「鈴木大拙の思想」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

Comment:0  Trackback:0
back-to-top