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2018
09.16

大きな木R ③/④

Category: 未分類

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 観音菩薩は、正式名を「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」と言います。一面二臂(顔が一つ腕が二つ)の観音菩薩です。「聖観音」は、救うべき相手に応じて、その姿を三十三に変身させていきます。ある時は、聖者、ある時は天界の神々、またある時は人間界にいる者、さらには修行者、女性、子供などのように自由自在にその姿を変えながら、衆生(人間を含む全ての生きとし生けるもの)を救済していきます。これが全国に広がる三十三観音霊場巡りの起こりのようです。
 ちなみに、「十一面観音」「不空羂索観音」「馬頭観音」「千手観音」などがありますが、これらは「聖観音」とは区別して「変化観音(へんげかんのん)」と呼ばれています。それぞれが固有の観音菩薩として、衆生を済度していくとされます。 
  そこで、私見ではありますが、絵本「おおきな木」に描かれている木は、まさに「聖観音菩薩」の在り方そのものではないでしょうか。

 「おおきな木」は、成長する少年に寄り添いながら、一つ一つの願いを受け止め、自らの姿を変えながら、次々に叶えていきます。しかもどの場合にも、そのことに常に「幸せ」を感じています。
 そんな「おおきな木(以下「木」とします)」の在り方を、甘すぎるという指摘もあるかも知れません。また、それぞれの場面で、「木」に対する少年の謝意も謝罪の姿も描かれておらず、その態度に不快を感じる向きもあるかも知れません。
 しかし、私たちがこの物語から読み味わいたいことは、ここまでして少年(他者)に尽くそうとした「木」の在り方にあると思うのです。仏教には「忘己利他(もうこりた)」という言葉があります。自己の利益を顧みることなく、他者の利益を優先させることこそ尊いというのが、その意味です。先ず、私利私欲を離れるということです。いつも例に挙げる「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」もこれに近い思想です。
 外国人の作者が、仏教における仏(とりわけ「菩薩」)という概念に対して、どれほどの知識や理解があったか定かではありません。しかし、この話に込められている深いメッセージと、仏(とりわけ「菩薩」)が信仰の上で果たしている役割とには、明らかに接点があります。
 言うまでもなく、これはフィクションです。単なる空想話だと切り捨てる人もあるかも知れません。また、「菩薩」にしても、信仰の上での架空のキャラクターです。そのことを否定するつもりはありません。(以下、④/④につづく)

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2018
09.11

大きな木R ②/④

Category: 未分類

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 長い時間が過ぎ、少年はまた木の下にやってきました。木は以前と同じように誘います。ところが、少年は温かく暮らせる家が欲しいと言います。木に家はありません。そこで木は、自分の枝を切って家を作り、幸せになるように言います。
 枝を集めて持ち帰り、家を作った少年を見て、木は幸せになりました。
 それから長い時間が過ぎ、少年はまた戻ってきました。木は同じように語りかけます。ところが、今度は、遠くにいくための船が欲しいと言います。木は即座に、自分の幹を切って船を作り、幸せになるように言います。少年は言われたように幹を切り倒し、船を作って遠くに旅立ちます。
 ずいぶん長い時間が流れ、少年はまた戻ってきました。ところが今度ばかりは、木はあげられるものがありません。切り株だけになった木は、少年にそのことを告げます。ところが、歳をとった少年は次のように言います。
 「ぼくはもう、とくになにもひつようはしない。こしをおろしてやすめる しずかなばしょがあればそれでいいんだ。ずいぶんつかれてしまった。」
 そして、木の誘いにしたがい、そこにこしを下ろします。それで木は幸せになるのでした。   〈村上春樹 訳 あすなろ書房〉


 「おおきな木」を母性の象徴と感じる読者が多いのではないでしょうか。少年に対して無私・無償の愛を与え続ける「おおきな木」は、母親の有り様そのものとも言えるものです。「おおきな木」の慈愛は、眩しいほどに迫ってきます。
 一方で、この話から連想されるのが、仏の一つである「観音菩薩」です。般若心経では、冒頭で「観自在菩(かんじざいぼさつ)」とも読まれます。「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と呼ばれることもあります。

 仏教では、仏を「如来」と「菩薩」という概念で区別しています。「如来」は、悟りを開き、真理の世界(彼岸)から教えを広めている仏です。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの仏がそれです。
 これに対して「菩薩」というのは「菩提薩捶(ぼだいさった)」、つまり、悟りを求める者という意味です。「如来」に限りなく近い位置にありながら、現世に留まり、私たち凡夫を救うことを務めとする仏です。宝冠、胸飾りなど豪華な装飾品を身につけた姿にその特徴があります。釈迦が出家する前の姿を表しているとされます。
 そこで「観世音菩薩」ですが、この仏は、その名前を称えるとその音を観じて願いを成就させてくれるという仏です。現世利益の成就に霊験があるとされることから今日まで、最も広く民衆の信仰を集めている仏の一つです。(以下、③/④につづく)

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2018
09.06

大きな木R ①/④

Category: 未分類
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 今回は、最近その存在を知った絵本「おおきな木」を紹介したいと思います。1964年に出版され、世界各地で翻訳されたロングセラーの作品ですので、ご存じの読者もあるかと思います。作者は、シェル・シルヴァスタインという、アメリカの絵本作家です。単なる子ども向けの絵本という範疇を超え、奥深く考えさせられる内容を含んでいますので、なかなか読み応えがあります。
 物語は次のような書き出しで始まります。
  
あるところに いっぽんの木がありました。
 その木はひとりの少年のことがだいすきでした。
 少年はまいにち その木の下にやってきました。
 そして はっぱを いっぱいあつめました。
 はっぱでかんむりをつくり 森の王さまになりました。
 木登りだってしました。
 えだにぶらさがってあそびました。
 そして りんごをたべました。
 いっしょに「かくれんぼ」をしてあそびました。
 くたびれると こかげで少年はねむりました。
 少年はその木がだいすきでした…
 だれよりもなによりも。木はしあわせでした。
 でもじかんがながれます。
 少年は だんだん大きくなっていきます。
 木がひとりぼっちになることがおおくなります(以下、省略)」。 
 ここからは展開が少しずつ変わってきます。以下は、その要点です。
 そしてある日、少年は木の下にやってきます。木は、以前のように、自分に登り、枝にぶら下がり、そのりんごを食べるように誘います。そして木陰で遊び、幸せになるように語りかけます。
 ところが、少年からは「物を買って楽しみたい」という、意外な言葉が聞かれます。ところが木にお金はありません。そこで、木はりんごを売ってそのお金で幸せになるように言います。言われたとおり、少年は、あるだけのりんごを集めて運んでいきます。それを見た木は、幸せになりました。(以下、②/④につづく)

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2018
09.01

仏飯の功徳 ③ /③

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 武帝の行為は、仏教にあって「布施」に当たるものと言えます。仏教では、「布施」には大切な要件がいくつかあるとされます。その一つが、見返りを求めてはならないということです。これだけの施しをしたのだから、それにふさわしい「功徳」があるはずだというのでは本当の布施にはなりません。「布施」に、欧米流の「ギブ・アンド・テイク」の原則は当てはまらないということです。その意味では、武帝の問いそのものが仏道に馴染みません。達磨はそのこともたしなめたのだと思います。
 しかし、別の見方もできるのではないでしょうか。長く寺を作り、経を写させ、多くの僧を育ててきたこと自体が「功徳」であるという見方です。つまり、「功徳」は先にあるのではなく、今そこにあるという考え方です。禅で求められる「因果一如」という考え方に重なるのかも知れません。原因と結果は、一瞬のうちに統合され、完結しているという考え方です。(第3集に「因果一如」)
 そもそも、見返りを求めて仏(以下、位牌も含む)に手を合わせたとしても、それが実現するかどうか定かではありません。思い通りにことが進む場合もあれば、全く期待外れの結果になることだってあります。その先は、正に神仏のみぞ知るです。前者の場合はまだしも、後者の場合には、負の感情がその後に尾を引くことがあります。落胆に伴う感情が仏への不信や反感、ひいては怨みに転じる場合もあるのかも知れません。
 こんな理解の上で、先の私の体験を当てはめるなら、「功徳」は仏飯を供えることの先にあるのでなく、仏飯を供え、手を合わせることそれ自体にあることになります。仏の前で、威儀を正し、静かに頭を垂れることことで、私たちの心は鎮まります。そして、同時に穏やかで、清々しい気持ちにもなります。そのときの“心の平安”が「功徳」ではないか思うのです。また、勝手な解釈かも知れませんが、仏は、そんな私たちの様子を目を細めて静かに見つめられているのではないでしょうか。
 考えすぎかも知れません。しかし、こんなふうに受け止めれば、私たちは、もっと気軽に仏に手を合わせることができるようになるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 最後に蛇足になりますが、お盆を機に、こんな気持ちになれたのも「功徳」と言えるのかも知れません。(〆)

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2018
08.27

仏飯の功徳 ②/③

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 ところが、しばらくすると、私の心の中に、もう一つの想いが湧いてきました。
「やはり、いつものようにしよう…。」
 私は、台所に移動しました。そして所定の場所に置かれていた空の仏器に、炊きあがったばかり米飯を盛り付け、茶器と共に位牌の前に置きました。その後には、いつものように『般若心経』を読み上げました。不思議なのですが、そのとき、何か心が澄んだような気持ちになりました。
 そのとき、ふっと一つのことが頭を過ぎりました。それは、仏になったご先祖様は、炊きあがった米飯が供せられることにそんなに執着されるだろうかという疑問でした。
 そもそも、私たちが仏をイメージするとき、先ず思い浮かべるのは絶対的な「慈悲心」であり「寛容心」ではないでしょうか。都合のよい解釈かもしれませんが、その仏が、凡夫の些細な失敗や怠慢などに対して、苛立ったり、怒ったり、まして罰を当てたりするだろうかということです。
 だとするなら、私たちが仏や先祖に仏飯を供える意味は、いったいどこにあるのでしょうか。以下は、私見です。
 仏飯のお供え、それは私自身に対するものだったのではなかったか…、これが私の見解です。仏飯を供えたとき、私の心中に平穏が保たれたことは先に記した通りです。それをしなかったら、私の中には、きっとなにがしかのモヤモヤが残ったのだと思います。となれば、仏飯を供えることの意味は、仏や先祖ではなく、私自身の内にあったことになります。

 中国の南北朝時代、達磨がインドから中国に渡って来たとき、梁国の武帝との間に、興味深いやり取りがあったことを思い出しました。武帝が「私は長く寺を作り、経を写させ、多くの僧を育ててきたが、どんな功徳があるか?」と問いかけたのに対して、達磨は「無功徳(むくどく)」と答えたあのやり取りです。
  「功徳」を辞書で引くと、「善行の結果として与えられる神仏の恵み、ご利(り)益(やく)」とありました。したがって「無功徳」というのは、「利益などない」ということです。武帝の質問に対する達磨の答えは、見返りを求めて為すことなど、仏道の本道でないという手厳しい教示だったというわけです。(以下、③/③につづく)

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