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2018
08.17

仏さまがいるR  ④/④

Category: 未分類

IMG_7506観音菩薩 an
 このように、「仏さま」は、1日24時間、365日、素晴らしい「心」をもって、休みなくわたしやあなたのために働いていてくださっています。しかも、それは誰に頼まれたわけでもありません。だから、「お金をください」とも「恩を返してください」とも、一切、言われません。皆さんのために一方的に働くだけです。素晴らしいことだと思いませんか。
 では、「仏さま」は、人間が死んでしまうとどうなるのでしょう?当然の疑問だと思います。皆さんが生きている間、一生懸命に皆さんを含むあなたのために働かれる「仏さま」は、体の中にいらっしゃるのですから、それらが死んだ後には、消えてしまうのでは…?というのが普通の考え方だと思います。
 しかし、仏教ではそうは考えません。仏教では、「仏さま」は、場所を変えて、別のところにいかれるというふうに考えます。でも、別の場所といっても、死んだ人が往くと言われている「あの世」ではありません。決してそのことを間違えてはいけません。「仏さま」は、皆さんが住んでいる「この世」の別の場所に移られるだけなのです。
 とは言っても、実を言うと、そこはもともと「仏さま」がいらっしゃった場所でもあるのです。とても不思議なことですね。だから、皆さんが死んでも、「仏さま」は、もともといらっしゃった場所に戻られるだけなのです。そして、また新しい命が生まれたとき(動物でも植物でも、人が造ったものでも)、いつかはまた、その体のなかに移り住まれることになることになるのです。
 このように、「仏さま」は、いつも自分の中にいらっしゃって、皆さんを含むあなたのために、いつでも一生懸命に働いていてくださっています。こんなふうに考えると、心が豊かになって、とても頼もしい気持ちになってきませんか。
 なかには、そんなことは信じられないと思う人がいるかも知れません。でも、皆さんがそのことを信じるか、信じないかということに関係なく、「仏さま」は、今も皆さんの体の中で、皆さんのために働いてくださっているのです。(〆)
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2018
08.12

仏さまがいるR  ③/④

Category: 未分類
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 そして、二つ目には、皆さんも含め、皆さんの周りにいるあなたを幸せにしようとする働きです。このときのあなたというのは、人間のことだけではありません。動物も植物も、山や川、海など自然界にあるものも、あるいは人間が作ったものも、全てのものがあなたです(ここから先は、あなたという言葉をこのような意味で使っていきます)。その意味では、「仏さまの心」に、わたしとあなたという区別はありません。そもそも「仏さま」に、わたしという心はありません。そして、ただあなたが幸せになることを願い、一生懸命に働いてくださっているのです。
 あなたを喜ばせてあげたい…。あなたが喜んでいると嬉しくなる…。あなたが悲しんだり、苦しんだりしているのを見ると辛くなる…。そして、助けたり、励ましたりしてあげたくなる…。皆さんの心の中にこんな気持ちが自然に湧き出してくるとき、それが「仏さまの心」が働いているときなのです。
 ところで、皆さんにも、皆さん自身の心があります。○○くんの心、○○さんの心と言ってもいいかと思います。でも、「仏さまの心」と皆さんの心には、違いがあることに気づくでしょう。皆さんは、友だちを助けてあげたり、優しくしてあげたりすることができる反面、ときには、意地悪をしたり、困らしたりすることはありませんか。憎らしく思って嘘をついたり、怒りをぶつけたりすることはありませんか。
 このようなときに働き出す心が、「仏さまの心」から出てくるものではないことは言うまでもありませんね。このような心は、あなたのことを考えずにわたし(自分)のことだけを考えて勝手に動いてしまう、「仏さまの心」とは、全く別な心なのです。分かりやすく言えば、“わがままな心”です。それは、皆さんが、もともと持っている心ではありません。気づかないうちに身につけてしまった「仮の心」なのです。「仏さまの心」は、どんな場合にも決してあなたを、裏切ったり、粗末にしたりはしません。
 でも、「仮の心」であっても、この心が、もともとある「仏さまの心」が働き出すのを邪魔してしまうことがあるので注意しなければなりません。だから、皆さんは、いつも自分の中に「仏さまの心」があるということを忘れず、この「仮の心」が騒ぎ出すのを抑える努力をしなければなりません。
 そんなに難しいことではないと思います。皆さんが、自分の中に「仏さまの心」があることを思い出しているとき、「仮の心」は消えているはずです。いくら素晴らしい「仏さまの心」であっても、そのことに自分が気づかないうちは、その心は働かないということです。(以下、④/④につづく)
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2018
08.07

仏さまがいるR  ②/④

Category: 未分類
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 皆さんは、きれいな花を見たとき、嬉しい気持ちになるでしょう?それは、皆さんの体の中の「仏さま」が嬉しい気持ちになっていらっしゃるからなのです。また、街の中で体の不自由な人やお年寄りが苦労されているのを見ると助けてあげたくなるでしょう。それは、皆さんの体の中の「仏さま」が助けてあげたいなと思っていらっしゃるからなのです。また、だれかが大きなケガや病気をしたり不幸になったりした様子を見ると、心が苦しくなるでしょう?それも、皆さんの体の中の「仏さま」が苦しくなっていらっしゃるからなのです。
 それに、悲しい目にあうと悲しい気持ちがするでしょう?これも、皆さんの体の中の「仏さま」が悲しい思いをしていらっしゃるからです。そして、友だちと喧嘩をして、意地悪をしたときなど、少し時間が経つと悲しい気持ちになることがあるでしょう?これも、皆さんの体の中の「仏さま」が悲しい気持ちになっていらっしゃるからなのです。
 そして、わすれてはならないことは、このような皆さんの心が、決して誰かから教えてもらったり、与えてもらったりしたものではないということです。それは、人間なら、誰もが生まれながらにして持っている心なのです。「仏さまの心」は、いつも皆さんの体の中にあって、一生懸命に働いてくださっています。では、その心には、どのよう働きがあるのでしょうか。

 一つ目には、皆さんがいつも当たり前の生活ができるように守ってあげようとする働きです。見る、聞く、話す、歩く、走る、遊ぶ、食る、トイレにいく、寝るなど、ごく当たり前のことですが、この当たり前のことが当たり前にできるということが、実は一番幸せなことなのです。それは、病気をしたときのことを思い出すとすぐに分かると思います。「仏さま」は、いつも、これらのことが、当たり前にできるように、誰一人、差別することなく皆さんを守ってくださっています。(以下、③④につづく)

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2018
08.02

仏さまがいるR  ①/④

Category: 未分類

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「仏」などというと、とかく抹香臭いものと捉えられがちですが、私は、仏教で説かれる「仏」という概念に大きな魅力を感じています。人として生まれた私たちが、生きることの意味について問い直すとき、「仏」という概念は、大きなヒントを与えてくれるというのが私の理解です。
 読者が子どもたちであることを想定し、「仏」をテーマに綴ってみたいと思います。


 皆さんの体の中には、一人の例外もなく、「仏さま」がいらっしゃいます。こうして文章を読んでいるときも、そして、歩いているときも、勉強しているときも、遊んでいるときも、あるいは、食べているときも、トイレに行っているときも、どんなときにでも、皆さんの体の中には「仏さま」がいらっしゃいます。
 こんなことを言うとびっくりするかも知れませんが、これは本当のことです。誰の体の中にも、いつも「仏さま」がいらっしゃるのです。夜になって皆さんがぐっすりと寝ているときにも「仏さま」はいらっしゃるのですよ。
 では、「仏さま」は、どんな姿をされているのでしょうか?体の中にいらっしゃるなら簡単に見られそうに思います。しかし、残念ながら、私たちはその姿を見ることはできません。「仏さま」に姿はないからです。
 それでは、お寺などにいらっしゃる「仏さま」は、いったい何なのかと疑問に思う人があるかもしれません。実は、お寺にいらっしゃる「仏さま」は、人間が想像して作ったものなのです。「仏さま」というのは、こんなに美しくて、優しくて、清らかな姿をしていらっしゃるだろうということを想像して作ったのです。それがお寺にいらっしゃる「仏さま」(「仏像」とも言いますね)なのです。
 いろいろな時代に、いろいろな人が思い思いに作ったのが仏像ですから、いろいろの姿の「仏さま」がいらっしゃいます。だから、それは、「仏さま」の本当の姿かと言えば、「そうです」とも言えないし「そうではありません」とも、言えないのです。
 「仏さま」には、姿がありません。だから、その姿を見ることができません。でも、姿は見えなくても、「仏さま」を感じることはできます。なぜかというと、「仏さま」に姿はありませんが「心」はあるからです。皆さんは、その「心」を通して、「仏さま」を感じることができるのです。それは、どんなときでしょうか。(以下、②/④につづく)
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2018
07.28

扇子は扇子ではないR ④/④

Category: 未分類

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 では、後半は、どういうことなのでしょう。否定した後、「ゆえにこれをAと名づく」と肯定していく…。弁証法の論法として知られる「否定の否定」ではなく、いわば「否定の肯定」です。「否定の否定」は「肯定」(もちろん単純な「肯定」ではありませんが)ですが、「否定の肯定」は、すべてのものを「否定」しながら、結局は、すべてを「肯定」しているのですから「絶対肯定」とも言えます。考えれば考えるほど、混乱してきます。
 ただ、少し冷静になって考えると、次のような思いも沸き上がってきます。もし、前半の「AはAに非ず」に留まっていたら、生活はひどく不便なものになってしまいます。言葉や文字、「概念」や「論理」があるからこそ、私たちは、現実世界を、当たり前のこととして生きていくことできます。

 ところで、禅には、おびただしい数の「禅語」があります。禅の先人がその心や悟りの境地を短い一句の中に込めたものです。「日々是好日(にちにちこれこうにち)」、「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」、「喫茶去(きっさこ)」、「一期一会(いちごいちえ)」などの墨跡が、床の間や茶室に掲げられているのを見られた方も多いのではないでしょうか。これらは「不立文字」を旨とするその思想とは矛盾する禅の一面ではあります。
 結局、禅では、言葉や文字、「概念」や「論理」が、決して物事の本質を表す手段ではないこと、その意味では、歪みや偏りといった危うさも含んでいることをしっかり認識した上で、注意深く扱うように警告しているのだと思います。そのために、敢えて「否定の肯定」という手法を取っているのではないでしょうか。
 よく分かりませんが、今は、こんな理解をしているところです。読者には、どのように受け止められるでしょうか。

 扇子を題材にしながら、理屈っぽい話で、ますます暑苦しくしてしまったことをお詫びし、今回のブログを締めさせていただきます。(〆)
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