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2018
12.14

二つの円 R ①/④

Category: 未分類

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 友人と会話をしていたとき、デカルトの説いた「我」と禅における「我」とはどのように違うのかという問題が投げかけられました。デカルトの「我」というのは、有名な「我思う故に我あり」という言葉に込められた「我」のことです。これに対し、禅が追求する「我」というのは、臨済禅師が説いた「真人(しんにん)」という概念に象徴されるものです。この二つの「我」には、自ずから大きな質的な違いがあります。その違いを説明するように求められたのです。
 少し横道にそれますが、デカルトの思想について調べてみるとは、次のような説明がありました。
 「『我思う故に我あり』…という命題は、保守的な「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」といわれる所以である…」
 浅薄な知識をもとに補足したいと思います。現代であればごく当たり前である「我(私)」という概念こそは、デカルトによって確立されたものです。ただし、デカルトは、神そのものを否定してはいません。神の存在を認めながらも、疑う余地のないものとして「我」があることに目覚め、それを「近代的自我」として宣言したのです。その意味では、キリスト教の思想の中に楔を打ち込んだことになります。
 近代以降の文明の発展は、この「近代的自我」の確立と深い関係にあるというのが定説です。「我」のもつ人間の根源的なエネルギーが、近代文明を牽引し、発展に導いてきたということです。近代文明の発展とデカルトの説いた「近代的自我」とは、まさに車の両輪の関係あるというわけです。
 最初から、たいへん理屈っぽい話になってしまったことをお詫びします。話を元に戻したいと思います。(以下、②/④につづく)

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2018
12.06

ギャラリー67

Category: 未分類


◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー67」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、岡崎東公園と高浜市の瓦工場で撮影したものです。
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次回は「二つの円R」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2018
12.02

「電車」か?「飛行機」か? ③/③

Category: 未分類

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 そこで思い起こされるのは、エルサレムのことです。エルサレムの旧市街は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって聖地とされます。街の中にはユダヤ人の統合のシンボルとされる「嘆きの壁」(ユダヤ教の管理下)があり、イエスの墓などがあると伝えられる「聖墳墓教会」(キリスト教の管理下)があり、また、預言者ムハンマドが天に昇ったとされる「岩のドーム」(イスラム教の管理下)があります。エルサレムは、それぞれの教徒にとってかけがえのない土地であるということです。
 したがって、特定の勢力がその独占を図ろうすれば、軋轢が生まれ、反目が始まり、やがては対立や抗争に発展するだろうことは想像に難くありません。いえ、今まさにその真っ只中にあるのだと思います。 
 この問題が、ものの名前をどう呼ぶかなどという単純な問題でないことはよく理解しています。長く複雑な歴史的な経緯の中で、それぞれの立場や考え方、主張などに大きな隔たりがあることは事実です。今さら、互いの溝を埋めるのは不可能なのかも知れなません。

 ただ、そうであっても“互いに違いを認め合う”という視座を持つことは大切ではないでしょうか。立場や考え方、主張が違うからといって、それを無視したり、排除しようとしたりする方向からは、決して共生の道はないと思います。
 「柳は緑 花は紅」という有名な禅語があります。これは、「柳は緑色」であることが真理があり、「花(この場合は桃の花)は紅色」であることが真理であるということを述べたものです。柳は花にはなれません。花も柳にはなれません。共にそのままで最高の在り方であり、違いをそのままに認め合うこと”が最も理にかなっているということを述べたものです。
 私見ではありますが、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」で最後に綴られている一節「みんなちがって、みんないい」も、このような思想に足場を置くものではないでしょうか。

 話が横道の逸れました。孫と楽しい時間を過ごすために、これからも、孫が自分の組み上げた玩具ブロックを何と呼ぼうと、祖父らしく、広く大きな心で認め、褒めてやろうと思っているところです。(〆)
                                                                        
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2018
11.28

「電車」か?「飛行機」か? ②/③

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 ところで、少し飛躍するのですが、海抜8,848mを誇る世界最高峰の山に、三つの名称があることをご存じでしょうか。言うまでもなく「エベレスト」というのが、最もよく知られた名前だと思います。インド測量局で局長を務めたイギリス人、ジョージ・エベレストの名前から付けられたものといいます。 
 また、この山には「チョモランマ」という名称もあります。これは、チベット(中国)で呼ばれている名前で、「母なる大地」の意味があると聞きます。
 そして、もう一つが「サガルマータ」という名称です。これはネパールでの呼び名で、文字どおり「世界の頂上」の意味があるとのことです(蛇足です、この山はチベットとネパールの国境上に位置しています)。
 ところが、よくよく考えると、このことは先の玩具ブロックの呼び名とも類似しているように思えます。私たちが、この山を「エベレスト」と呼んでも「チョモランマ」と呼んでも、また「サガルマータ」と呼んでも、一向に不都合はありません。名称というのは、いわば符丁のようなものです。それを使う側の都合に合わせて仮に設定されるものであり、絶対的なものではありません。また、そのものの実体を表すものでもありません。
 私たちは、通常この山を「エベレスト」と呼んでいます。しかし、その私たちが、この山を「チョモランマ」と呼ぶチベットの人たちや、「サガルマータ」と呼ぶネパールの人たちに異議を唱えたとしたら、その見識はおろか、人間性までも疑われるでしょう。私たちには「エベレスト」ですが、チベットの人たちにとっては、紛れもなく「チョモランマ」であり、ネパールの人たちにとっては、「サガルマータ」なのです。そのことにトラブルがないのは互いの立場の違いを認め合っている”からだと思います。(以下、③/③へつづく)

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2018
11.24

「電車」か?「飛行機」か? ①/③

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 4歳になる孫が玩具ブロックで遊びたいというので、しばらくの間、相手をすることにしました。玩具ブロックというのは面白いものです。組み上げ方次第で、ロボットやロケット、ヘリコプター、スポーツカー、ブルドーザー、さらにはベッドやお風呂、トイレなど、実に様々なものに変身していきます。
 ところが、孫が組み上げたあるものをめぐって問題が起きました。それは、細長い箱の形をしており、下部には車輪が付けられていました。そして、箱の中には4体の人形が一列に収められていました。どこから見ても「バス」か「電車」だと思いました。そこで、孫に尋ねてみました。
 「Aちゃん。それはバス?電車?」
すると、孫曰く
 「飛行機!」
一瞬、耳を疑いました。ところが、その直後、孫はそれを持ち上げると、飛行機よろしく空中を移動させ、隣の部屋の机まで運んでいったのです。やはり「飛行機」だったのです。
 こんなことはよくあります。「ヘリコプター」かと思ったものが「メリーゴーランド」であったり、「テーブル」とかと思ったものが「電子レンジ」であったりといった調子です。発想の柔軟さには驚かされることもしばしばです。

 そのとき、考えたことがありました。孫が組み上げ、私が「バス」と思ったものは、本当に「バス」かということです。
 言うまでもないことですが、そうではありません。それは、単にブロック片を組み上げられた玩具ブロックの塊に過ぎません。その意味では、それをどのように呼ぼうと何の制約もないはずです。「バス」や「電車」、「トラック」、「ブルドーザー」、あるいは孫の言うように「飛行機」など、何と呼んだとしても一向に構わない理屈になります。
 したがって、この段階で、私が孫に「Aちゃん違うよ。これはバスでしょ!」などと迫ったとしたら、トラブルとなることは必至でしょう。孫は、抵抗の意を示すために泣き出すかも知れません。そんな様子を妻や娘(孫の母)が目撃したら「大人げないと」蔑まれるのが関の山です。(以下、②/③につづく)

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