FC2ブログ
2019
01.17

「西田哲学」と「禅」について ①/③

Category: 未分類

250px-Kitaro_Nishidain_in_Feb__1943.jpg [西田幾多郎](にしだきたろう)

 友人がHPに定期的に自作の詩を掲載しています。その中に、日本の代表的哲学者である西田幾多郎(1870年~1945年)の思想に触れたものがありました。 次のような書き出しでした。

 哲学者の西田幾多郎は
 何かに夢中になっているときのように
 主観と客観が未分化の状態を
 純粋経験と名づけた
 (中略)
 極めつけは
 人が反省する以前の
 「真の自己」との一致
 これが「善」であるとした
(以下略)

 この詩に触発され、西田の哲学について、そのポイントを改めて復習してみようと思いました。
 西田は、自らの参禅経験と近代哲学を基礎に、仏教思想と西洋哲学との融合を試みた哲学者ですが、その代表的な著書が『善の研究』です。
 『善の研究』には、「主客合一」という重要なキーワードがあります。「主」とは主観のこと、「客」とは客観のことです。したがって「主客合一」というのは、主観と客観が一つになるということを意味します。平易に言うなら「私」と「私以外の対象」が一つになるということです。
 西田は次のように述べています。


 真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し、物我相忘れ、天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。


 どのようなことなのでしょうか。『臨済録』(臨済宗開祖の臨済禅師の言行をまとめた語録)の「四料揀(しりょうけん)」という章の中に、ヒントとなる記述があります。その中で、禅師は、“主観と客観を一つとして見る”という立ち位置から、四つの行動パターンを示しています。
 その中の一つに「奪人不奪境(だつにんふだっきょう)」があります(他に「奪境不奪)人(だっきょうふだつにん)」「人境倶奪(にんきょうぐだつ)」「人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」がある)。「人」は主観、「境」は客観を意味します。
 山田無文老師は次のように解説しています。


  ある時は主観を奪って客観を奪わない。自分を忘れて映画に見とれてしまう。あるものは映画だけだ。自分というものはなくなってしまっている。自分を忘れて花を眺めておる。花だけがそこに実在する。花が我だ。自分を忘れて子供を愛する。我はなくなって、客観だけ実在する。きれいに我を離れて、客観を生かし相手を生かしていく。


(以下、②/③につづく)
68-6 (2) 
※クリックすると拡大して見られます。
 


スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2019
01.13

墓参に思うこと ②/②

Category: 未分類


E6B0B8E5B9B3E5AFBAE382A4E383A9E382B9E383882393-06f36.jpg 
 黄檗禅師(以下、禅師とします)は、「黄檗の礼拝瘤」とも呼ばれように、額に瘤ができるほど礼拝したといわれます。その禅師が修行僧の首座(代表)を務めていたときのことです。禅師の礼拝を不審に思い、ある修行僧が次のように問いました。
 「禅では、仏にすがらない、法にも僧にもすがらないというが、あなたは一体何のために礼拝しているのですか?
 すると禅師はいきなり修行僧にビンタをくらわせ
「わしは、仏にご利益を願わない。法にも僧にも頼まない。ただ礼拝するだけだ!」と答え、さらに礼拝を続けました。
 禅宗は、仏や法、僧にまつわるご利益を頼んで拝礼する宗派ではありません。とりわけ、黄檗禅師ゆかりの臨済宗にあっては、特定の仏像を崇拝しません。仏像を焼いてしまったという逸話まで伝わっています(本ブログ「仏像を焼く」でも紹介)。
 しかし、禅師は、拝礼せずにはいられなかったのです。その意味では、禅師の態度は、確かに腑に落ちないところがあります。
 この話は公案「禅問答」にもなっているようで、私のような凡人に、禅師の深意を推し量ることなど到底できません。一般には「無所得の礼拝」、つまり、何も求めない礼拝にこそ意味があるというような解釈があるようです。ただ、今回の墓参を機に思うところがありました。墓地掃除が、私自身のためであったのと同様に、禅師の礼拝も禅師自身のためだったのではないかということです。
 これまでも紹介してきましたが、禅には「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(もくぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、内裏(だいり)に坐す」という言葉が残されています。己の心の中に坐っている本当の<仏>を見出す(見届ける)ことの肝要さを述べたものです。黄檗禅師の胸裏にも、紛れもなくこの思想が息づいていたはずです。
 私見ではありますが、禅師は自らの内にある<仏>に対して礼拝していたのではないでしょうか?…。間違っているかも知れません。

 「仏を自己の内に見届ける」ことが、禅の目標です。それは、<仏>と自己とは本来一つであることの体得を意味します。修行僧たちは、そのために、日々、厳しい修行を続けるのだと思います。在家者には、真似のできない世界です。
 しかし、図らずも今回、墓地掃除を通して、<仏たち>と私の関係性について改めて考えるところとなりました。在家者ならではのお気楽な理屈であることは十分承知しています。ただ、こんなふうに捉えることで、<仏たち>の存在がより身近に感じられるようになることは確かだと思います。その意味では、私にとってありがたい墓参になりました。
 さて、読者はどのように思われるでしょうか。(〆)

68-5.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2019
01.09

墓参に思うこと ①/②

Category: 未分類

ohakamairi_man.png
 昨年の秋、彼岸を迎え、妻と一緒に墓参をしたときのことでした。我が家の墓地は、山中深くにあるため、現地に着いて最初にしたことは、冬場に落ちた枯れ葉を除去することでした。短い竹箒を使って、墓石の周囲に溜まった落ち葉を丁寧に掃き出す作業を続けました。
 作業しながら頭を過ぎったことがありました。
落ち葉を掃き出してはいるが、結局は、私自身の心の中の汚れを払っているのではないか-と。
 そもそも、墓地掃除は何のためにするのかと言えば、亡くなった父母をはじめ、この地に眠る代々のご先祖様のためです。平たく言うなら、墓地をきれいにすれば、父母、そしてご先祖様は、「きっと喜ばれるだろう」という想いからです。
 ところが、よくよく考えてみれば、父母やご先祖様(以下、<仏たち>とします)が「喜んでくださるだろう」などというのは、私だけの一方的な思い込みです。言うまでもないことですが、私に<仏たち>の気持ちを確かめる術はありません。
 結局、墓地掃除というのは、<仏たち>から「喜ばれるだろう」、あるいは<仏たち>は「喜んでいるだろう」などの思いを巡らせることで、私自身が心の安定を図っているのかも知れません。実際、掃除を済ませ、きれいになった墓地で、<仏たち>に向けて読経した後には、とても清々しい気持ちになります。
 こんなふうに考えてくると、<仏たち>と私とは一つのものであるように思えてきます。父母をはじめとする<仏たち>は、私の心の中にいます。その<仏たち>の喜びと、私の喜びは同時に起こるものです。その意味では、その瞬間には、<仏たち>と私は一つであることになります。

 唐代に中国で活躍した黄檗希運(おうばくきうん)禅師にまつわる興味深い逸話が残されています。
 黄檗禅師は、臨済宗の宗祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の師匠にあたる高僧です。弟子の臨済禅師から「如何(いか)なるか是(こ)れ仏法(ぶっぽう)的的(てきてき)の大意(たいい)(仏法の一番大事なところは何でしょうか)」と問われたとき、三度にわたり竹篦(しっぺい)(竹製の杖)で打ち据え、臨済禅師を大きな悟りに導いたとされます(ちなみに一度に20回も打ち据えたといいますから、臨済禅師は合計60回も打ち据えられたことになります。)。(以下、②/②につづく)

68-4.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。


 


Comment:0  Trackback:0
2019
01.05

無作妙用 ②/②

Category: 未分類

img_9350_sp0000_2.jpg
 私たちは、幼児には戻れません。また、煩悩にまみれた我が身にあって、水のように無欲・無心を貫くことも容易ではありません。
 しかし、勝手な解釈かも知れませんが、私たちが水の表情や幼児の姿に「無作妙用」を感じるとき、己の内に潜んでいる「無作妙用」の資質は蘇り、共振するのではないでしょうか。その瞬間、私たちの中の作為や計らいは消え、煩悩の炎には蓋ができているのだと思います。
 
 水のことから話を進めてきましたが、こんなふうに考えてくると、私たちが花を愛でているときにも同様のことが言えるのかも知れません。
 明恵(みようえ)上人(鎌倉時代、華厳経と真言密教を兼修した高僧)にまつわる次のような興味深い逸話が残されています。
 ある時、上人は、道端に咲くスミレの花に手を合わせ、ポロポロと涙をこぼしていました。不思議に思った弟子が、そのわけを尋ねると、上人は次のように答えました。


 この花をごらん、何と可憐なものではないか。誰がこれを咲かせたのだろうね?この可愛い姿は、どなたがこしらえたのだろうね?この美しい色は、誰が染めたのだろうね?
 この草花一輪でさえも、われわれ人間の知恵では理解することができない。このままが御仏(みほとけ)のお姿ではないか。


 花の美しさも間違いなく無作為の力によるものです。「無作妙用」の体現者です。この話をもとにするなら、大自然の営みの全てが、例外なく「無作妙用」を体現したものと言えます。
 花を含め、私たちが大自然が造形するものの素晴らしさに心を寄せているとき、私たち自身が「無作妙用」の体現者になっているのかも知れません。そして、その瞬間、明恵上人の言葉を借りるなら、仏を感得できているということなのでしょうか。
 今しばらくは、千変万化する水の魅力的な表情にこだわって、「無作妙用」の具体を追い求めていきたいと思っています。(〆)                                 

68-8 (2)
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2019
01.01

無作妙用 ①/②

Category: 未分類

original_201804021716386d7.jpg
新年、明けましておめでとうございます。
 つたない内容ではありますが、今年も、本ブログをどうぞよろしくお願いいたします。


「無作妙用(むさみょうゆう)」という禅語があります。作為や計らいのないところに最高の働きがあるという意味です。
 本ブログの表題は「無相の水」です。毎回の配信で、末尾に水の写真を掲載しています。これを見た友人や知人からよく聞かれるのは、「何だか、わけの分からない写真だね…」に類する感想です。確かにそうだと思います。水の表情は固定することなく、一時も動きを留めません。しかも、どの一瞬にも言葉にできないほどの魅力的な表情を湛えています。単に美しいという範疇には収まらない、まさに別次元の美しさです。これが「無作妙用」を体現したものだと思います。友人や知人から同様の反応があるときには、とても嬉しいものです。

 乱暴かと思いますが、絵画と比較してみたいと思います。古今東西、水(海、池、滝なども含む)が描き込まれた名画はたくさんあります。とりわけリアルな写生画など、たいへん美しく、迫るものがあります。
 しかし、いくら細密に描いたとしても、水の表情を正しく表現することはできません。そこには避けがたく画家固有の感性が介入するからです。また、画家の表現方法の問題もあるでしょう。つまり、人の手が入ることで「無作(むさ)」ではなくなるということです。水は、何の計らいもなく、無作為の力を得て、無欲・無心に動くからこその魅力なのだと思います。

 飛躍するかも知れませんが、4歳になる孫が描く絵にも同様の魅力を感じます。孫の描く絵には、何の臆面もなければ、衒いもありません。そもそも自分をよく見せようという気持ちがないからだと思います。それが、その絵に「無作妙用」を連想させるのではないでしょうか。
 そのことも含め、一般に幼児の持つ無類の可愛さは「無作妙用」に基づくものではないかという想いがあります。幼児というのは、その一挙手一投足が、私たち大人の笑みを誘います。笑っても、泣いても、ダダをこねても、無条件に可愛いものです。
 それは、人間としての最高の在り方を体現しているからではないでしょうか。私たち大人は、彼らの姿に自らの幼児期の姿を重ね合わせて、ノスタルジーを感じるのだと思います。 
(以下、②/②につづく) 

11.jpg
※クリックすると拡大して見られます。



Comment:0  Trackback:0
back-to-top