2018
02.24

ギャラリー63

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー63」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~3が新城市の「阿寺の七滝」、4~7が豊田市の「阿知波池」で撮影したものです。

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次回は「二人のイリーサ R」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2018
02.18

仏像を焼く ④/④

Category: 未分類

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 「仏」に形はありません。また、「仏」は姿を留めません。「丹霞焼仏」の逸話は、仏像などという妄念・妄想の産物に手を合わせる暇があったら、自らを含めた森羅万象が「仏」である真実に目を向け、そのことを大切に保っていきなさい…、その先に「悟り」があるのだから…。こんなメッセージを伝えようとしていたのではないでしょうか。

 ところで蛇足ですが、この話を聞いて次のような疑問を持たれる読者があるかも知れません。すなわち、これまでの理屈に倣うなら、木片と言えども「仏」であるわけだから、暖をとるためとはいえ、それを焼くことは、あまりにも身勝手ではないかと。こう問われたら、丹霞禅師は、果たしてどのように答えるのでしょうか?
 以下、禅師からお叱りを受けるのを覚悟で、代わりに私が答えるとしたら、次のようになるかと思います。
 「木片は、我が身を焼くことで見事に私を救済している。これこそが『仏』としての本分ではではないか…」と。
 あまりにも屁理屈が過ぎるのも知れません。笑い話として読み流してくださって結構です
 いずれにせよ、「丹霞焼仏」の逸話に倣うなら、私たちが仏像に手を合わせることに全く無駄なことになります。それどころか、法の真実に背き、罪を犯すことにもなります。いえ、そもそも仏像など必要ないことになります。
 とは言え、寺院を訪れた際、ご本尊を前に合掌・礼拝するのは、私たちの極自然な反応だと思います。このようなとき、私たちは、仏像、そして「仏」をどのように受け止めればよいのでしょうか?

 ちなみに、我が家の菩提寺は禅宗(臨済宗)です。本堂には釈迦如来が安置されています。しかし、菩提寺を訪れたときは、迷わず合掌・礼拝します。そんなときには、いつも次のように考えることにしています。
 ―私たちがご本尊に向かって手を合わせるとき、ご本尊も私たちに手を合わされ、「あなたたちが『仏』ですよ」と説いておられる、と―。
 あまりにも都合のいい解釈でしょうか。読者なら、どのように考えられるでしょうか。(〆)

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2018
02.14

仏像を焼く ③/④

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  石それ自体に何の罪もなければご利益もありません。ところがそこに「仏」の絵を画いた瞬間から、私たちの意識や行動は変わってきます。その上に坐ったり寝転んだりすることなど、幼気なこどもでもなければ、とてもできないだろうと思います。信心深い仏教徒なら、合掌したり、礼拝したりするかも知れません。
 しかし、それらは私たちの妄念・妄想から生じる反応に過ぎません。石の上に画かれた「仏」に尊ぶべきものもなければ、畏れるべきものもありません。ただ私たちの心がそうさせているだけです。木で作られた仏像は単に木片に過ぎません。したがって、その木片に「仏」という妄念・妄想を抱くことなど、もっての外であるというわけです。その意味では、禅の思考は、極めて現実的です。

 しかし、私見ではありますが、この逸話は、単に妄念・妄想を否定するためのものではないと思うのです。焼かれた木像が仮にネコやネズミを模したものだったとしたら、何の問題もなかったのではないでしょうか。やはり、それが「仏」の姿をしていたことに問題があるのだろうと思います。
 仏教にあって、「仏」には特別な意味があります。それを特徴づける根本思想が「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうです。全ての生きとし生けるものには仏の性質あるという、仏教固有の世界観です。
 『般若心経』で読まれる「空即是色」も同様の世界観を述べたものだと思います。「空(目に見えないもの)」、つまりは「仏」が「色(目に見えるもの)」を造り出しているということです。言い換えるなら、森羅万象は、「仏」が現成した姿であり、それ以外のものはないということです。
 したがって、この論理に立つなら、この世の全てのものが「仏」という概念に内包されます。そこにはいかなる区別もなく、全ては一つです。したがって、そこでは「仏」という概念も言葉も不要になります。そうなれば「仏」だと言ってそれを特別扱いし、崇めたり、畏れたりすることは全く無意味なことになります。他方、カエルやミミズ、ハエやカなど、一般に下等とされるものたちを蔑むことも愚かなことになります。 
 それに、「仏」に実体はありません。見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることもできないのが「仏」です。妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが「仏」という概念とも言えます。禅宗にあっては、その真実を冷徹に見極めているのだと思います。(以下、④/④につづく)

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2018
02.10

仏像を焼く ②/④

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 これまでも紹介してきましたが、禅には「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(きぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、奧裏に坐す」という言葉が残されています。金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう…。木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう…。泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう…。本当の仏は、それぞれの心の中に坐っているのだから、その仏を己の中に見出すことが大切である…。このような意味になるようです。
 確かに、このような考え方に立てば、自分の外にわざわざ仏像を置き、それを崇拝するなど必要などないことになります。禅宗の寺院で特定の仏像が置かれることがないのは、このような仏像、あるいは「仏」そのものに対する特有の思想があるからだと思われます。その深意は、いったいどこにあるのでしょうか。
 丹霞禅師にまつわる逸話には次のような後日談があります。
  ある人が真覚大師に尋ねた。
「木仏を焼いたのは丹霞なのに、僧の方に何の罪があったのでしょう?」
 すると大師は次のように言った。
「僧には仏しか見えていなかった」
人は、再度、大師に尋ねた。
「では丹霞はどうだったのでしょう?」
大師は答えた。
「丹霞は、木を焚いたのだ」

 意味深長なやり取りではあり、軽々な解釈は慎まなければならないと思いますが、僧の罪が「仏しか見えていなかった」という件の中に鍵があるように思います。丹霞禅師にとって単なる「木」であったものを「仏」としたことにどのような罪があると言うのでしょうか。
 この論旨を明らかにするために、「『禅の語録』導読」では、『二入四行論(にゅうしぎょうろん)』にある一段が紹介されていました。次がその意訳です。
 法には大きさも姿かたちも価値の上下も無い。たとえば家の庭に大きな石があるとする。その上で寝ようが坐ろうが好き放題だ。驚きもしなければ、恐れもしない。
 ところがその石の上に仏の絵を描いたとする。すると心はそこに「仏」という観念を造り出して、たちまち罰があたるのが怖くなって、その上に坐れなくなってしまう。石はそのままなのに、汝の心のためにそうなってしまうのである。心とは何のようなものか?
 そう、すべては汝の心意識の筆が画き出し、それに対して自分で勝手に慌てたり、怖がったりしているだけのものである。

 ここで言いたいのは、次のようなことなのだと思います。(以下、③/④につづく)

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2018
02.06

仏像を焼く ①/④

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 日本仏教の各宗派にあっては、崇拝されるご本尊はほぼ決まっています。華厳宗や法相宗は盧舎那仏(るしゃなぶつ)、天台宗は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、真言宗は大日如来(だいにちにょらい)、浄土宗や浄土真宗は阿弥陀如来(あみだにょらい)といった具合です。もちろん例外はあります。
 ところが、不思議なことに禅宗にあっては特定の仏像がありません。釈迦如来が置かれる場合が最も多いのですが、それが聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)であったり、珍しいところでは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)や布袋和尚(ほていおしょう)であることもあります。これには禅宗が持つ特有の仏像観がその根底にあるようです。
 それを垣間見る上で参考となる面白い逸話が残されています。中国・唐時代に活躍した丹霞天然(たんかてんねん)禅師にまつわる「丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)」と呼ばれる話です。小川 隆著(駒澤大学教授)「『禅の語録』導読」に基づいて紹介したいと思います。
  寒い日があり、丹霞禅師が木でできた仏像を焚いて寒さをしのいでいた。それを見た同寺の僧の一人が、驚いて次のように問いただした。
「仏像を燃やしてどうされるつもりか?」
しかし、丹霞禅師は平然として次のように答えた。
「荼毘(だび)にふして、仏舎利(ぶっしゃり)をいただこうと思う」。
僧は、あきれ、責め立てるように言った。
「木でできた仏像など燃やして、仏舎利など見つかるわけはないではないか!」。
すると丹霞禅師は、次のように言い放った。
「それなら、仏像など単なる木ではないか。誰からも責められることはない」。
 それを聞いた僧が、前に進み出ようとすると、なんと眉毛がいっぺんに抜け落ちてしまった。

  最後に“眉毛がいっぺんに抜け落ちる”という奇妙なオチがありますが、これは、偽りの法を説く者は、法罰によって眉毛が落ちるという禅宗独自の信仰に基づく表現のようです。つまり、法の真実に背いているのは木仏を焼いた丹霞禅師ではなく、それを咎めた僧の方にあるということを強調して表現しているわけです。たいへん極端な話ではありますが、これが禅宗の仏像に対する基本的なスタンスのようです。(以下、②/④につづく)

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