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2019
07.15

『生死は一つ?』 R ②/③

Category: 未分類
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 人は死ぬことによって 生命がなくなるのではない
 天地一杯の生命が 私という思い固め(精神と肉体)から
 天地一杯の中にばらまかれるのだ


 内山興正老師の詩の後半部分です。天地一杯に「汲み取る力」があるとしたら、逆にこのことと表裏の関係で、「ばらまく力」にも支配されることにもなります。生かされているということは、同時に死なされるということでもあるということです。「汲み取る力」も「ばらまく力」も表裏一体のものです。
 それは、人間だけに限ったことではありません。動物も、植物も、微生物も…。全ての生命体が、宇宙に満ちあふれている「大いなる生命」により、何らかの因縁によって「汲み取られ(生かされ)」、同時に「ばらまかれる(死なされる)」のです。
 ところで、壮大な宇宙の営みである「汲み取る(生)」ことも、「ばらまく(死)」ことも、自分のこととして置き換えてみると、急に大問題となってきます。記憶のない「生」の問題はまだしも、とりわけ「死」の問題は深刻です。「死」は、誰も避けることはできません。また「生老病死」という言葉もあるとおり「老いる」ことも、「病む」ことも同様に大きな問題です。
 しかし、避けられないとは分かっていても、少しでも先延ばししたいというのが私たち凡夫の身勝手な想いでもあります。また、それがどれだけ浅はかな願いであるとは分かっていても、どうする術もないのが私たちです。悪し様に言うなら、私たちは、「死」「老」「病」を恐れ、怯えつつも、普段それを忘れたことにしているだけなのではないでしょうか。ここに私たちの最大の「苦」があるのだと思います。
  私たちは、この人生の大問題を、どのように捉えたらよいのでしょうか?
(以下、②/③につづく)


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2019
07.10

『生死は一つ?』 R ①/③

Category: 未分類
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 人は生まれることによって 生命を生じたのではない
 天地一杯の生命が 私という思い固め(精神と肉体)の中に汲み取られたのである


 これは、昭和に活躍した内山興正老師(曹洞宗の禅僧)の詩の一節です。天地一杯(宇宙)に充満する生命(壮大なエネルギー)と、私たち人間の生命は、決して別なものでないという信念に基づいて綴られた詩だと理解しています。もちろん、宇宙に充満する生命(以下、「大いなる生命(いのち)」と呼びます)は、人間がコントロールできるものではありません。内山老師は、「私の思い以上のところで働いている力」とも呼んでいます。『般若心経』の経文中にある「色即是空 空即是色」のうちの、『空』にあたるものと理解しています。
 「大いなる生命」は、見ることも触れることもできません。聴くことも嗅ぐことも味わうこともできません。ところが、それは個々の生命体に姿を変えて、現実世界の中に現れてきます。あるものは動物として、あるものは植物として、またあるものは微生物として…。言うまでもなく、それは人間の意志とは全く無関係です。あくまでも不可思議、不可説、不可商量なる「因縁」によって生じるものです。その意味では、私が、ウシやウナギ、ゴキブリやハエ、カビやバクテリア等として生まれてくる可能性も十分にあった訳です。
 このように、内山老師によれば、この世の一切の生命あるものは、全て「大いなる生命」の実物であるということです。当然のことながら、私たち人間も例外ではありません。「大いなる生命」の実物の一つとして、たまたま人間と名づけられ存在しているだけということです。
 内山老師は、このことを「汲み取られた生命」と表現しているのだと思います。いわゆる「空即是色」です。(以下、①/③につづく)


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2019
07.05

雑巾に「昇格」? ④/④

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 最後に、若い頃に出会い、大きなカルチャーショックを覚えた詩を紹介したいと思います。「便所掃除」と題した詩です。読者にはご存じの方が多いかと思いますが、トイレの話題に関連することから、敢えて掲載させていただきます。
 作者の濱口國雄さんは、旧国鉄職員だった人で、新人の頃の実体験を綴ったものと伝えられています。
 なお、文中の「/」は、実際には改行されています。



 

   便 所 掃 除
                          濱 口 國 雄  
 扉をあけます /頭のしんまでくさくなります / まともに見ることが出来ません / 神経までしびれる悲しいよごしかたです / 澄んだ夜明けの空気も くさくします / 掃除がいっぺんにいやになります / むかつくようなババ糞がかけてあります

 どうして落着いてしてくれないのでしょう / けつの穴でも曲がっているのでしょう / それともよっぽどあわてたのでしょう / おこったところで美しくなりません / 美しくするのが僕らの務めです /美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

 くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます / 静かに水を流します / ババ糞におそるおそる箒をあてます / ポトン ポトン 便壺に落ちます / ガス弾が鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します / 落とすたびに糞がはね上がって弱ります / かわいた糞はなかなかとれません

 たわしに砂をつけます / 手を突き入れて磨きます /汚水が顔にかかります/くちびるにもつきます / そんな事にかまっていられません / ゴリゴリ美しくするのが目的です / その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします / 大きな性器も落とします

 朝風が壺から顔をなぜ上げます / 心も糞になれて来ます /水を流します / 心にしみた臭みを流すほど流します / 雑巾でふきます / キンカクシのうらまで丁寧にふきます / 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます

 もう一度水をかけます / 雑巾で仕上げをいたします / クレゾール液をまきます /白い乳液から新鮮な一瞬が流れます / 静かなうれしい気持ちですわってみます / 朝の光が便器に反射します / クレゾール液が糞壺の中から七色の光で照らします

 便所を美しくする娘は / 美しい子供をうむといった母を思い出します/ 僕は男です / 美しい妻に会えるかも知れません

(〆)


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2019
06.30

雑巾に「昇格」?③/④

Category: 未分類
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 ただ、台布巾や雑巾、トイレを人格化するなど、もってのほかと受け取られる読者もあるかも知れません。しかし、仏教(とりわけ禅の思想)では、「無情のもの(一般に意識や感情を持たないとされているもの)」にも「心」があると見ることは極当たり前のことです。
 いつも例に挙げるように、仏教には「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」、という独自の世界観があります。動物や植物は言うまでもありませんが、石や砂、塵など無機物にも「心(仏心)」があるという考え方です。そして、とりわけ禅では、それらの在り方の中にこそ学ぶべきことがあると主張します。これを「無情の説法(むじょうのせっぽう)」を聴くと言います。
 意識や感情、選り好みなど、エゴ(我欲)から離れることを『悟り』と定義するなら、これら無情のものたちは、すでに悟っていると言えます。そのままで、すでに『仏』であるということです
 台布巾も雑巾も、そしてトイレも、宮沢賢治の言葉を借りるなら、「ホメラレモセズ クニモサレズ」、ただ黙々と自らに与えられた役割を果たしています。その役割とは、唯一つ、他者を救うことです。まさに「自未得度先度他」の実践者です。見方によっては彼らこそ『仏』そのものと言えます。「無情の説法」を聴くということは、これらのものたちが発している無言の声(真理を説く声)を私たちが積極的に聴き取り、感じ取っていくことに外なりません。
 ところで、「般若心経」の経文の中に、「不垢不浄(ふくふじょう)不増不減(ふぞうふげん)」という文言があります。汚いものもきれいなものもなく、減ることも増えることもないということを述べたものです。様々な解釈ができるのですが、次のような見方も可能です。
 机に着いた汚れを台布巾、あるいは雑巾で拭き取ったとしても、その汚れは机から台布巾、雑巾に移動するだけです。また、その台布巾、雑巾を水で洗ったとしても、汚れは洗い流した水に移るだけです。きれいにいなることが汚れることでもあり、汚れることがきれいになることでもあります。汚れそのものは、減りもしなければ増えもしません。したがって、誰かがそれを引き受けなければならない訳です。
 「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」は、私にはとても高いハードルです。しかし、先の中学生のように「無情の説法」を聴こうとする態度や努力だけは、続けていきたいと思っています。(以下④/④につづく)

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2019
06.25

雑巾に「昇格」?②/④

Category: 未分類
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 作文は、そんな台布巾の在り方に思いを致し、それを雑巾とすることを「昇格」と呼ぶことの意味に気付いた投稿者の新鮮な驚きが綴られています。素晴らしいものの見方、考え方、感じ方だと思います。日々、黙々とその役割を果たし続けている雑巾たちがこの作文を読んだら、どれほど喜ぶことでしょう。
 こんなことを考えているうちに、急にトイレのことが頭に浮かびました。「自未得度先度他」の実践という意味では、トイレも同じではないかというたわいもない思いつきです。トイレは、人間が不要になったもの、いえ、ある意味では、最も捨てたいと思っているものを文句一つ言うこともなく、また一切の差別をすることもなく、黙って受け入れてくれる…。しかも、自らの身を汚しながら…。
 一昨年、「トイレの神さま」という歌が流行しました。歌詞の中では、「トイレには それはそれはきれいな女神様がいるんやで だから毎日きれいにしたら女神さんみたいにべっぴんになれるんやで…」というフレーズが何度も繰り返されていました。「べっぴんになれる」という歌詞にはなっていますが、一般化するなら、「幸せになれる」というメッセージだと解釈してよいとか思います。
 人は誰も、自分の周りをきれいにすれば、晴れ晴れした気分になり、気持ちも落ち着くものです。一般に掃除などというのは、結局は、自分の心を洗い、磨く行為でもあるのだと思います。「トレイの神様」は、心が清らかに保たれていることが、幸せの原点であるということを伝える、秀逸な歌だと思います。(以下③/④につづく)

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