2018
07.18

扇子は扇子ではない ②/④

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 「AはAに非ず、ゆえにAと名づく」…。当然のことながら、Aには、様々なものが入ります。冒頭で例に挙げた「扇子」がそうですが、他にも、「仏は仏に非ず、ゆえにこれを仏と名づく」「月は月に非ず、ゆえにこれを月と名づく」、あるいは、「山は山に非ず、ゆえにこれを山と名づく」云々といった具合です。
 全体の文脈などから、「色(しき)」の世界から、いったん「空(くう)」の世界に入り、再び「色」の世界に戻ることを喩えたものかとも思うのですが、禅の思想ばかりは、なかなか一筋縄ではいきません。
 「月は月に非ず…」「山は山に非ず…」ということですから、この論法を徹底していくと、最後には「◎山△男は◎山△男に非ず…」ということにもなります。つまり、戸籍上の名前さえも、否定されてしまうのです。 いわゆる全否定です。こうなると、何がなんだか分からなくなってきます。

 ところで、禅の始祖とされる達磨大師(だるまだいし)が「四聖句(しせいく)」というものを残しています。その中の一つに「不立文字(ふりゅうもんじ)」があります。
 仏教の真理(あるいは「禅」の真理)は、文字では説明できないものであり、文字を使って理解できるものではない…。文字を使って説明したものは真理から離れていく…。
 概ね、こんな意味かと思われます。このような立ち位置から、「以心伝心(いしんでんしん)」等という言葉も生まれてきます。つまり、「真理というのは、心から心へ伝わっていくもの」ということです。
 文字を使わないということは、言葉を使わないということと同意です。文字も言葉も「概念」です。その意味では、「不立文字」というのは「概念」に囚われない在り方の奇特さを説いたものと言えるでしょう。「月」「山」、「花」、「鳥」など、すべて「概念」です。もちろん「○山△男」も「概念」です。「概念」であるということは、そこには実体がないということです。 (以下、③/④につづく)
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2018
07.13

扇子は扇子ではないR ①/④

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  暑い日が続いています。そこで、今回は扇子にまつわる話をしたいと思います。禅の思想を紹介した本の中に、たいへん不思議なやりとりが載せられていました。それは、次のようなものでした。
  甲が、扇子を示して乙に問いかけます。
  「これは何ですか?」
 目の前に扇子が示されたのですから、乙は、当然 のごとく次のように答えます。
  「それは扇子です。」
 ところが、甲は、言い放ちます。
 「違います!」
それを聞いた乙は驚いて甲に聞き返します。
 「では、それはいったい何ですか?」
すると、甲は、平然として、次のように答えます。
 「これは扇子です。」

 言うまでもなく、甲とは、禅の奥義を究めた人物のことです。そして、乙は、私たち凡人の代表と考えてよいでしょう。
 甲の言う「扇子」と、乙の言う「扇子」に違いがあるとは思えません。現に、最初は否定した甲も、結局は「扇子」であると言っています。では、なぜ初めに「扇子ではない」と言ったのか。そこが問題です。まったく、不可解で、不可思議なやりとりです。
 明治時代、禅を欧米に紹介した哲学者として知られる鈴木大拙(すずきだいせつ)は、これを禅の思想を特徴づける理念の一つとして、「即非の論理」と呼んでいます。「AはAに非ず。ゆえにこれをAと名づく」というやっかいな論法です。
 「金剛経(こんごうきょう)」というお経の中には、この論法に基づいた記述がたくさん出てきます。読者なら、この論法をどのようにとらえられるでしょうか。
 『金剛経』というのは、その昔、釈迦が弟子の一人である須菩提(しゅぼだい)に説いたとされるお経です。その経文の一文を聞いて、大鑑慧能(だいかんえのう)という中国禅の本流を築いた高僧が悟りを開いたとも伝えられていることもあり、禅にあっては、重要な経典の一つに数えられているようです。
 難解なお経であり、私のような凡人には、とても荷が重いのですが、いつも紹介する山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の講義録を足がかりに、亀の歩みのように歩みを進めていくとこの論理に出会います。
(以下、②/④につづく)

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2018
07.08

混沌の音③/③

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 禅には「無作妙用(むさみょうゆう)」という言葉があります。作為や計らいのないところに最高の働き、いわば「真理」の一端が現れているというほどの意味です。そこで、いつものように、勝手な推論です。
 -手作りの横笛による「混沌」なる響きこそ、「真理」の響きに近いと言えないか-
 この響きが、普遍的なものとして、万人に受け入れられるものであるかどうかは分かりません。しかし、「純正律」で演奏される音楽と比較すれば、作為が希薄であることは明らかです。

 ところで、教会などでよく見られるカリヨンと呼ばれる鐘があります。カリヨンは音階を持つ鐘です。よく似た楽器にハンドベルもありますが、これらによって奏でられる音楽は美しく、たいへん魅力的です。
 一方、日本で鐘といえば、お寺の梵鐘が思い浮かびます。梵鐘には、鐘の大きさによる音の高低はありますが音階はありません。というより、その響きの中に無段階の音階が包含されているのだと思います。いわば「混沌」の響きです。
 私は、カリヨンの音も好きなのですが、最近は、梵鐘の音にも魅力を感じるようになりました。やはり歳のせいでしょうか?
 白隠禅師(はくいんぜんじ)(江戸時代に活躍した臨済宗の高僧)は、遠くの寺で鳴る梵鐘の音を聴いて、「悟り」を開いたとも伝えられています。私も、それにあやかれるとよいのですが、まあとても無理だろうと思っています。 (〆)
  

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2018
07.03

混沌の音②/③

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 ところで、少し話は逸れますが、私には忘れられない体験があります。以前、郷土に伝わる「神楽」(分類すれば民俗音楽)に出会ったことがありました。お盆の時期に地域の催事として取り組まれていたものですが、横笛と小太鼓、大太鼓による素朴な音楽でした。
 ところが、そこで使われていたのは手作りの横笛でした。地元に生育している竹を切り取り、錐で穴を開けただけのたいへんシンプルな構造でした。当然のことながらそのピッチ(音程)は、一本一本違っており、チューニング(音合わせ)はできません。無段階のピッチを持つ横笛十数本によるユニゾン(斉奏)なのですから、音楽に知識のある方なら、「とんでもない!」ということになるのだろうと思います。理論的には、完璧な「不協和音」なのですから…。
 ところが、いざ演奏が始まると不思議な感覚に襲われました。私も奏者の一員として加わっていたのですが、実に心地がよいのです。それは、今までに感じたことのないものでした。紙面では、お伝えできないのが残念です。
 私事で恐縮ですが、学生時代には、吹奏楽部に所属し、トランペットを吹いていました。「純正律(じゅんせいりつ)」の和音の響きに憧れ一生懸命に練習したのですが、実力が伴わず他のメンバーに迷惑をかけるばかりでした。
 「純正律」の和音の響きというのは、本当に美しいものです。「平均律」にはない、純粋性を感じさせる美しさがあります。それは研ぎ澄まされた感覚と高い技術によって生み出される響きでもあります。
 ところが、手作りの横笛により生み出される音は、「純正律」の響きとは質の異なる、言葉にならない魅力的な響きでした。美しいというよりも、全身が包み込まれるような、不思議な感覚の響きでした。喩えるなら、浅瀬を流れる水の音や松風の音に近いのかも知れません。
 全くの私見ではありますが、「純正律」による和音の響きを、「秩序」、あるいは「完成」と形容するとしたら、手作りの竹笛が生み出す音は「混沌」、あるいは「無相」と形容できるかと思います。「純正律」とは対極にある響きと言えるかも知れません。(以下、③/③につづく)

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2018
06.28

混沌の音①/③

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 金管五重奏の演奏を鑑賞する機会がありました。イタリア人を中心に結成されたチームでしたが、その技術の高さ、迫力、そして美しい響きに、時間の経つのを忘れました。私にとって、至福のときでした。そして、観賞後、ある想いが頭を過ぎりました。それは、音楽の世界にも「真理」があるのだろうか、という、子供じみた問題意識でした。
 「真理」というのは、時間も空間も超えた普遍的なものです。仏教には「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉があります。あらゆる事物(もの)や事象(ことがら)に「真理」が現れているという意味だと理解しています。この考えに立つなら、音楽にも「真理」が現れていることになります。どのようなことなのでしょう?
 次のように考えました。「真理」の現れている音楽というのは、時代や社会、世代、性別、職業、さらには国籍や習慣、思想など、あらゆる条件を超え、人々に受け入れられるものだと思います。ところが、一口で音楽といっても、さまざまジャンルがあります。クラッシック、ジャズ、ポップス、民謡、演歌、童謡などがそれです。それは、私たちの好みが多様であるからです。
 そうなると、音楽そのものが、普遍的な「真理」になるとは言えないようにも思えてきます。先の演奏会では、クラッシック音楽を中心に、映画音楽、ジャズなども演奏されましたが、これらの音楽に興味のない人にとっては、退屈な時間だったかも知れません。それに、金管楽器の演奏そのものに好感を持てない人もあるはずです。(
以下、②/③につづく)

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