2017
06.22

消えたキーホルダー ①/④

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 今回は、恥を忍んで私の失敗談を紹介させていただくことにします。
 車検を受けるために、最寄りのディーラー店へ出かけたとき、その事件は起こりました。その前後、私が取った行動の概要は、以下のようでした。
 ディーラー店に着き、窓口で担当のスタッフに車検の作業内容や法定費用などの説明を聞きました。そして、その後、予めキーホルダーから外してあった車のキーをスタッフに手渡しました。そのとき私の肩にはショルダーバッグがかかっていました。
 その後、酔狂にも今話題を集めている車の試乗をさせてもらい、試乗が終わると、代車で自宅まで戻りました。ところが、ここで事件が起きたのです。
 ショルダーバッグの中にキーホルダーが見あたらないのです。免許証、ETCカードと一緒に入れておいたはずなのに“ない”のです。キーホルダーには、自宅の玄関キーの他、給油時に使用する専用カード(以下、給油カードとします)も付いていました。また、わずかではありましたが、現金も入っていました。
 少し焦りはありましたが、パニックになるほどではありませんでした。玄関からは入れなくとも、他にも家に入る方法はあります。給油カードも、今すぐに必要なものではありません。それにキーホルダーは、ディーラー店のどこかにあるはずです。窓口でスタッフが見つけて保管してくれているかもしれないし、ひょっとしたら自分の車の中に残っているかも知れません。試乗させもらった車の中に置き忘れてきたということも考えられます。
 とりあえず、ディーラー店へ電話をかけて事情を話し、探してもらうよう依頼しました。しばらく待てば、「ありました!」「○○~で見つかりました!」などと返事があるだろうと楽観していました。
 ところが、その思惑は見事に外れました。スタッフからの報告は、窓口付近にも、私の車の中にも、試乗車の中にも見当たらないというものだったのです。
 「そんなばかな!」というのが、その時の偽らざる心境でした。しかし、その場はスタッフに謝意を伝えるしかありませんでした。引き続き気に留めてもらうように依頼もしましたが、内心では、車検終了後、自分で探すしかないと覚悟しました。(以下、②/④につづく)
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2017
06.18

ミクロの世界と一元論 ④/④

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 次に二つ目の「二元論から一元論へ 西洋思想から東洋思想へ」という話です。これについては、『般若心経』で読まれる有名な一節「色即是空 空即是色」を想起させます。「色(形あるもの)は「空」(何もなく)、「空」(何もないもの)が色(形あるもの)である」という仏教固有の思想です。
 先に紹介した原子と巨大なピンポン球とのたとえの他にも、それを補完するような説明を聞いたことがあります。今、仮に体重70キログラムの人が亡くなって火葬にした場合、排煙塔から出ていった二酸化炭素は、それが地球上のどのような場所であっても、1立方メートルあたり約12万個含まれているのだと言います。ところが、私たちにその姿を見ることはできません。これが「空」と呼ばれる状態でしょう。
 しかし、二酸化炭素のもとになっている酸素や炭素も、巡り巡っていずれは他の生物(動物、植物、微生物など)の体や様々な物質の構成材料として発現することになります。これが「色」です。
 地球は、いわば閉じた袋のようなもので、その中にある全ての物質の構成要素である原子は、増えもしなければ減りもしません。“原子レベル”で見れば、これも『般若心経』に詠まれるように、「不増不減」だということです。その意味では、人間も“原子レベル”、つまり一元論の世界から眺めるなら輪廻転生していることになります。
 また、志村氏の話の中では触れられていませんでしたが、全宇宙の96%を占めるというダークマター(暗黒物質)やダークエネルギー(暗黒エネルギー)についての事実も興味を惹かれます。星や銀河、さらには私たちをもつくったとされるダークマターも、また宇宙の膨張を引き起こすとされるダークエネルギーも目に見えないものです。このことは、まさに「空即是色」という思想にぴったりと符合します(ただし、ここに「色即是空」が当てはまるかどうかは分かりませんが)。
                  
 以上、現代物理学が解き明かした事実と仏教との接点について、身の程知らずな私的見解を述べてきましたが、次元も質も異なる科学の研究成果と仏教の思想とを結びつけるなど、あまりも無謀であり、ご都合主義が過ぎるのでないかとの批判があるかも知れません。
 しかし、わたし」という視点の外から問題を捉え、抽象化することで、俯瞰して物事を眺めるという発想や方法は、宗教家(哲学者も含め)と科学者に共通するものであり、その意味において科学と宗教は明らかに接点があります。志村氏の話の後半に次のような言葉がありました。私はこの言葉に接し、一層その意を強くするのです。
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 自然革命といっても、東洋ではとっくの昔にその神髄を説いていました。では仏教が唱え、物理学が明らかにしたことは何か?それは宇宙のあらゆる事物は互いに密接、かつ直接的に結びついていて、孤立したものは何一つ存在しないということではないでしょうか。仏教やインド哲学では「一如」や「衆縁和合」「分割不可能な全体性」といったことを説いてきました。西洋人は先端技術を使って観察による物理学を通して、1900年になって、ようやくこの分割不可能な全体性に気づいたというわけです。(中略)量子論という世界が拓けてから、ようやく科学においても一元論的な世界が姿を現してきたというわけです。


 本文中には、現代物理学の研究成果が「自然vs人間」といったこれまでの西洋的な二元論から、全てを融合する東洋的一元論へとステージを変えたという見解も示されていました。まったくの門外漢の身ではありますが、これからも科学の動向を興味をもって見つめていきたいと思っているところです。(〆)
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2017
06.14

ミクロの世界と一元論 ③/④

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 ここまで読み進めた読者の中には、今回のブログの内容がいつもと異なることをいぶかしく感じられる方もあるかも知れません。あまりにも科学に傾斜し過ぎているのではないかと…。
 そこで、この辺りで軌道修正したいと思います。またぞろ抹香臭い話の登場かと思われるかも知れませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
 先ずは、一つ目の「ミクロ世界と観察者の間に立ちはだかる『h』の壁」という話です。志村氏が述べる「人間の心が対象に影響を与える」という件に接し、私はすぐさま「物心一如」という仏教語を思い出していました。物質と精神は一体であるということを述べたものです。類義語に「心身一如」という言葉もあります。
 以前、本ブログ「しゃもじになる」で、臨済宗の宗祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の語録の中に「心地の法(しんちのほう)」という言葉があると紹介しました。曰く
「道流(どうる)、山僧(さんそう)が説法、什麼(なん)の法を説く。心地(しんち)の法を説く」と。
 私の独断的な解釈ではありますが、「心地の法」というのは、心があたかも大地の如く、認識の世界の中に様々なものを生み出してくるということを述べたもだと思います。しかしながら、心から世界が出てくる…、心が世界を造っている…、ということではありません。臨済の説く認識論は、決して「唯心論」ではありません。もちろん「唯物論」でもありません。心(あるいは意識)が、何ものかに出逢うことによって、それが認識され、実在し、現実的な意味が生まれてくるという、ごく当たり前の事実を述べたものだと思います。その意味では、臨済の「心地の法」と「人間の心が対象に影響を与える」という現代物理学の研究成果とはそっくり同じものとは言えません。
 しかし、志村氏の「ミクロの世界が拓けたことで科学の世界にも人間の心を含まざるを得なくなった」という言葉は新鮮です。これは「物」と「心」の間に壁を設けることなく、それを一つのものとして見ていくという在り方に言及したものです。飛躍するかも知れませんが、この考え方の先にあるものは、どんな「物」にも「心」が宿っているという思想ではないかと思うのです。仏教の根本理念である「慈悲心」にも通じていくものだと思います。(以下、④/④につづく)
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2017
06.10

ミクロの世界と一元論 ②/④

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 志村氏の話で、私が興味をそそられたことがもう一つありました。「二元論から一元論へ 西洋思想から東洋思想へ」と題した話でした。その要点は、次の2点にありました。
①キリスト教や西洋の思想の原点は、神が様々なものを創造し、最後に人間をつくって自然や地上の生き物を支配するというところにある。
②東洋の自然観は、植物や動物(人間を含む)などが、持ちつ持たれつ輪廻しているとされるもので、西洋思想に見られる「人間と自然」という二元論的な対立関係を超えた一元論的な見方にその特徴がある。
 物事を一元論的に見るということは、この世に孤立や対立するものは何一つなく、全ては一元に帰するという世界観に立つことです。具体的には、どういうことなのでしょうか。
 文系人間の勝手な推測ではありますが、それは“原子の世界”から物事を眺めることではないかと思うのです(もちろん原子を構成するものとしては、さらに小さな素粒子がありますが、今回は原子までに留めておきます)。
 ここで志村氏は、たいへん興味深い例を挙げていましたので、要約して紹介したいと思います。
 人間の体にも花にも虫にも石ころにも、あらゆる物質の1立方センチメートルあたり10の23乗個という途方もない数の原子で埋め尽くされている…。仮に一つの原子を直径100メートルの巨大なピンポン球にたとえると、その真ん中に直径1センチメートルの原子核が浮かんでおり、ピンポン球の殻のところを直径1ミリメートルの電子がくるくる回っているというイメージになる…。直径百メートルの巨大なピンポン球の99メートル99センチメートルは、空っぽで何もない…。それぞれの物質はとてつもない数の原子で構成されているが、原子一つ一つはほとんど空っぽであり、それが無数に集まっていてもやはり空っぽである…。
 現代物理学に造詣の深い読者には嘲笑されるかも知れませんが、私にとってまさに目から鱗でした。
 種々の原子の複雑な組み合わせで成り立っているのが私たちの世界です。そこでは、原子同士が持ちつ持たれつの様相を呈しながら、多様に結びついているはずです。ところが、膨大な原子で埋め尽くされている私たちの世界も、ミクロ的な見方をすれば空っぽであるというのです。何とも不思議なことです。 (以下、③/④につづく)
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2017
06.06

ミクロの世界と一元論 ①/②

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無題
 今回は、いつもとは違った切り口から話を進めたいと思います。
 以前から購読している月刊誌の中に心から離れない1冊があります(月刊MOKU vol.221)。「宇宙のシナリオ」と題した特集号なのですが、その中に志村史夫氏(静岡理工科大学教授)の「対立するものは相補的である」という話が掲載されていました。根っからの文系人間である私にとって、宇宙の話やそれにまつわる相対性理論や量子論の話は極めて難解で、いくら読み返しても越えられないハードルがあるのですが、好奇心の衰えない私には、今でも興味の尽きないテーマなのです。
 志村氏によると、科学の分野には過去に大きな転換期が二つあったといいます。その一つが、地動説を唱えたコペルニクスや惑星の運動法則を発見したケプラー、近代科学の父とされるガリレオやニュートン等による「第一次科学革命」、もう一つが相対性理論や量子論を構築したアインシュタインやボーア、ハイゼンベルク等による「第二次科学革命」であるとのことでした。
 難解な話ばかりなのですが、それでも「第二次科学革命」にかかわる話の中に、興味をそそられるものがありました。その中の一つが「ミクロ世界と観察者の間に立ちはだかる『h』の壁」という話でした。私のような素人でも理解できるように編集されているため、その概要は何とか理解できました。
 言うまでもなく、自然科学や物理学というのは、その対象が客観的な実在であることが条件となります。「観察」という行為は、あくまでもそれを前提として行われるものであり、人間の心や人間の意志によって行われる「観察」が、その対象に影響を与えるようなことがあったとしたら、それは科学とは呼べないでしょう。ここに「心」と「物」を分けて捉える二元論的考え方の基本があります。人の「心」と実在する「物」とは別物だということです。
 ところがミクロの世界にあっては、「観察」という行為がそのれる対象に影響を及ぼすことあるというのです。つまり、観察するために光(エネルギー)を当てると、その途端に対象が動いてしまい、観察に支障が生じてしまうというのです。影響を与えないように光のエネルギーを小さくすればよいと考えられるかも知れませんが、そうすると今度は暗くなってしまい、対象の位置がはっきり分からなくなります。
 そこで、およその見当をつけて観察に臨むのだそうですが、そうすることで結局は、避け難く不確定な部分が出てきてしまうというわけです。それを「不確定性原理」と呼ぶのだそうです。ドイツ人の理論物理学者ハイゼンベルクは、これを次のように数式化したとありました。参考までに記しておきます。
 ΔX×ΔP≧h (ΔXは位置の不確かさ、ΔPは光の影響で動いた運動量の不確かさ、hはその積で一定値以下にはならない)
 平易に言うなら、観察する対象が小さくなればなるほど、それをはっきり見ようとして光を当てれば対象は動いてしまうし、動かさないようにしようと思えば、はっきり見えなくなってしまうということなのでしょう。つまり、ミクロの世界にあっては、観察者が人間である以上、どうしても避けて通れない根源的な不確定性があるということです。これを「hの壁」というのだそうです。
 志村氏は、この事実を紹介した上で、次のように述べています。
 観察という行為、つまり人間の心が対象に影響を与えてしまっていると言ってもいいでしょう。いままで人間の心と観察されるものとは別物だとして二元論で捉えていたけれど、ミクロの世界が拓けたことで、科学の世界にも人間の心を含まざるを得なくなった。これが第二次科学革命における自然観の大きな変化の一つです。
(以下、②/④につづく)
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