FC2ブログ
2018
11.20

人が宇宙へ行く理由 ③/③

Category: 未分類

ジョン-ラウ-スペースシャトル_a-G-9073800-14258389
 禅の思想を紹介するHPに次のような文章がありました。


 禅というものは、要するに一人ひとり人間が、「自分は何のためにこの世にやって来たのか」、「どうすれば人間としての立派な生き方ができるか」、「何をもってわが人生の完成とするか」、というような課題と真正面から取り組むことであり、そういう課題を持って生きるとき、その人の中に釈迦や達磨は厳然と生きている、という仕方で「禅の命脈」が伝えられてきたのである。
       (西村惠心著「禅語に学ぶ 生き方。死に方。」より


 このように、「われわれは何ものなのか?」という問いは、宇宙開発(探査・観測も含む)のみならず、哲学や仏教(とりわけ禅)にあっても共通するものです。もちろん、それぞれの分野で、究明の方法や経過、また成果の表現手法などは異なります。しかし、科学者、哲学者、宗教者が、自らが得た結論をどのような文字(数字も含む)や言語、あるいは手法で表現したとしても、それは、いわば「同義異語」とも言うべきものであり、答えは一つに収斂するのだろうと思います。つまり、真理は一つであり、決して動かないということです。
                      
 若田氏は、手記の後半で、1985年、スペースシャトルでイスラム教徒として初めて宇宙へ行ったサウジアラビアの王子の言葉を紹介していました。


 窓から地球を眺めていると、誰しも先ず初めは自分の生まれた故郷の町を探そうとする。次は自分の生まれた国全体。2、3日もすると自分の国がある大陸を見つめる。1週間もすると、地球全体を見る。そして、この地球が自分の故郷だと思うようになる。


  若田氏は、自らも同じような体験があるとした上で、「どうやら宇宙には『地球への愛』を呼び覚ます力があるらしい」と言葉を添えていました。
 「われわれは何ものなのか?」という問いに向き合うとき、この「地球への愛の自覚」という言葉は、一つのヒントになるのかも知れません。その背後にあるのは、自他を超越したところに存在する、目に見えない“大きな力”の働きへの深い畏敬の念なのだと思います。
 今回は、これ以上の深入りは避けます。

 いずれにしても、若田氏の手記に出会えたことで、宇宙開発(探査・観測も含む)と哲学、宗教との接点を再確認することができ、たいへん幸運でした。(〆)

67-6 高浜瓦工場 
※クリックすると拡大して見られます。


スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2018
11.16

人が宇宙へ行く理由 ②/③

Category: 未分類

 DBD9LYLUAAASGaj.jpg 
 しかし、若田氏の手記を読みながら、もう一つ考えたことがありました。実験など伴わない望遠鏡などによる宇宙の観測活動の場合のことです。
 1999年、日本がハワイ島に建設した「すばる望遠鏡」があります(総工費約400億円)。宇宙の果てを見る望遠鏡として極めて優れた能力を持つと聞きます。2006年には、日本の科学者が、現時点で最も遠いとされる約130億年前の銀河(IOK-1)の姿を捉えたというニュースもありました。この種のニュースに接する度に、日本の技術力の高さに驚かされる同時に、誇らしさも感じます。しかし、そのことにどのような意味があるのでしょうか。
 若田氏は、宇宙開発は「私たちの生活に密接に関わっている」との論調で手記をまとめていました。しかし、決してそれだけではないのではないかというのが私の受け止めです。若田氏も手記の冒頭で「人間は、未知のものを既知にしたいという欲求、知的好奇心を持っている」と述べています。宇宙開発(探査・観測も含む)には、私たちの生活とは直接関係のないところにも目的があるのではないでしょうか。
 現在、多くの国々が宇宙開発(探査・観測も含む)に取り組み、宇宙の謎を解明しようとしています。若田氏の言葉どおり、宇宙のことを知りたいという願望は世界中の人に共通するものだと思います。いえ、それは有史以来、洋の東西を問わず、人類に共通するいわば原初的な関心事であったはずです。

 ところで、私たちが「宇宙のことを知りたい」という思いの根底にあるものは一体、何なのでしょうか。以下、私見を述べたいと思います。
 「宇宙のことを知りたい…」、この知的好奇心こそは、「われわれはどこから来て、どこへ行くのか?」さらには、「そもそも、われわれは何ものなのか?」という根源的な問いに端を発するものではないでしょうか。宇宙の成り立ちの解明が、人類そのものの成り立ちを解明することに通じるということです。
 言うまでもないことですが、これは哲学の根本テーマです。同時に、仏教(とりわけ禅)にあっても大きなテーマです。いわゆる「己事究明」です。(以下、②/③につづく)

67-5 西山公園 
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2018
11.12

人が宇宙へ行く理由 ①/③

Category: 未分類

693123_615.jpg 
 宇宙飛行士である若田光一氏の手記(「倫風」より)に出会いました。次がその書き出しです。
 なぜ、われわれは宇宙へ行くのだろう。(中略)人間は、未知のものを既知にしたいという欲求、知的好奇心を持っている。つまり人類が未知の領域である宇宙を目指したのは必然だった。
 もっとも、好奇心を満たすためだけに、いくつもの国家が何兆円もお金を使って人類を宇宙に送り、大規模な宇宙ステーションを運用するわけがない。そこには明確な目的が存在する。

  この後、若田氏は宇宙開発の究極の目的を「人類が種としてこれからも存続すること」と前置きしながら、いくつかの例を挙げながら持論を展開していました。
 宇宙への興味や感心、憧れは多くの人に共通するものではないでしょうか。種子島宇宙センターから国産ロケットが発射される度にニュースとなり、国民からの注目度も高いものがあります。また、国際宇宙ステーションでの日本人宇宙飛行士の活躍も衆目を集めています。
 しかし、改めて「人間が宇宙に行く理由は何か」と問われたら、何と答えるでしょうか。まして、多額の国家予算を投入しての大事業です。ちなみに、国際宇宙ステーションにかかる経費で、2010年~2015年の間に日本が拠出したのは約2000億円だったと聞きます。(参考までにアメリカは約1兆8900億円)。
 若田氏は、宇宙での様々な科学実験を通して、その成果が医療や製造業にフィードバックされていると述べていました。少し専門的な話ではありましたが、平易に言うなら、無重力(微少重力)という環境の中だからこそ、地上ではできないような高品質な合金や精密な結晶の生成が可能であるとのことでした。また、骨量や筋力の減少に関する問題に対処するために自ら被験者となったことも明かしていました。いずれも、よく納得できるものでした。(以下、①/③につづく)
67-4.jpg  
※クリックすると拡大して見られます。
Comment:0  Trackback:0
2018
11.08

阿修羅と帝釈天 R ③/③

Category: 未分類

auto_QpdVL1.png
 一つには、籍や肌の色、言葉、文化、思想、信条等の違いを超えて、すべてを受け入れていくというメッセージでしょう。それが異教の人々であっても受け入れていく懐の深さを示しているのだと思います。しかも、それが戦闘に明け暮れる荒ぶる神々であるとすればなおさらです。その受容力の高さには驚くばかりです。
 また一つには、争うことの愚かさや空しさに目を開かせるためのメッセージでしょう。神話の中では、阿修羅と帝釈天が激しく戦う様子が描かれていますが、これはそのまま人間の世界にも通じるものです。我欲と我欲、意地と意地、立場と立場のぶつかり合い、そして報復の連鎖など、人間の争いほど、醜く、愚かで空しいものはありません。まさに心の闇とも言うべき所業です。
 仏教は、平和の宗教と言われます。その理由は、釈迦の説いた世界観が、このような類い希なる受容力と、鋭く深い人間洞察力とに基づいているからではないでしょうか。

  最後に、争いを戒めた釈迦の言葉のいくつかに耳を傾けたいと思います。


人は生まれながらに口の中に斧が生えている。
愚かな人間は、他人の悪口を言っては、それで自分自身を斬っている。〈スッタニパータ〉  

人に
対して怒るな。
自分が正しいと思いこんで、誰かをそしるな。
人に腹を立て、その人が愚かだとか悪意に満ちていると鼓吹するな。
そんなことをすると、自分で災いを呼び寄せてしまう。
あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたように
自分に不快なことが戻ってくる
。〈サンユッタ・ニカーヤ〉

この世においては、怨みに対して怨みを以て返すなら、
いつまでも怨みが消えることはない。
怨みを捨ててこそ、怨みは消える。
これは永遠の真理だ。 〈ダンマパダ〉

 
(〆)


ダンマパダ
  原始仏典の一つで、釈迦の語録の形式を取った仏典  
スッタニパータ
  セイロン(現在のスリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典

サンユッタ・ニカーヤ
    原始仏典の一つで「主題毎に整理された教え」という意味

×
※クリックすると拡大して見られます。

次回は『人が宇宙に行く理由』を掲載します。ぜひ、ご訪問ください。

Comment:0  Trackback:0
2018
11.04

阿修羅と帝釈天 R ②/③

Category: 未分類

d397e98b.jpg[東寺・帝釈天像]

 では、一方のインドラはどうでしょう。インドラというのは、仏教の世界では、帝釈天(たいしゃくてん)のことです。阿修羅との戦闘を繰り返したインドラも、阿修羅に同じく、釈迦の説法を聴聞したことで、梵天(ぼんてん)と並んで仏教の二大護法善神になったとされています。
 帝釈天と言えば、映画「男はつらいよ」の中で、寅さんの名文句「帝釈天で産湯を使い…」でも有名な仏さまですが、京都・東寺の帝釈天像がよく知られているのではないでしょうか。東寺のそれも、その秀麗な容姿から、阿修羅像同様に、女性から絶大な人気を集めているようです。
 このように、仏教からすれば異教徒にあたるこの二つの神ではありますが、釈迦から教化を受けることによって、仏法の守護神として崇められるようになりました。

 ところで、なぜ今回、阿修羅と帝釈天の話を取り上げたかということですが、それには、次のような理由があるからです。
 言うまでもなく、この二神にまつわる逸話は、仏教の都合だけで一方的に仕立てられたものです。ゾロアスター教、バラモン教(後にヒンズー教に継承・発展)の立場からは、それぞれの大切な神が仏教に取り込まれたことは、まったく預かり知らぬことでしょう。それに何の意味もないばかりか、むしろ迷惑なことなのかも知れません。
 しかし、そう言ってしまっては身も蓋もありません。私見ではありますが、この話の中に、仏教固有の世界観と、それに基づくメッセージが見事に表現されていると思うのです。(以下②/③につづく)

×
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
back-to-top